木内信胤 きうち のぶあつ

団体

掲載時肩書世界経済調査会理事長
掲載期間1979/10/15〜1979/11/09
出身地東京都
生年月日1899/07/30
掲載回数26 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社横浜正金
配偶者興銀総裁娘
主な仕事法華経、上海、中国経済、英国、新円発行、外為管理、世界経済研究所、整体法(野口)
恩師・恩人渋沢敬三 妹婿
人脈井上五郎、渋沢敬三(兄が同級)、内村裕之(一高上)、松本重治、辻政信、牛場信彦、八城政基、ハイエク
備考父:華族、母:岩崎弥太郎次女
論評

1899年7月30日 – 1993年12月5日)は東京生まれ。経済評論家。父・重四郎は内務官僚で、母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。従って三菱の3代目総帥・岩崎久弥は母方の伯父にあたり、エリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜は母方の従妹ということになる。旧制一高時代は野球部で活動。1918年、名投手・内村祐之(内村鑑三の長男)らと一高が早稲田・慶應義塾を久しぶりに撃破し野球界の覇者に復帰した年は一年生でレフトを守った。三年時には四番捕手・主将を務めた。吉田茂のブレーンであり、池田勇人・佐藤栄作の御意見番でもあったことから「歴代内閣の経済指南番」と呼ばれた。

1.母・磯路
私の母は明治3年((1870)、三菱の創始者岩崎弥太郎の二女として生まれた。岩崎家の長女春治は、後に憲政会を率いて総理大臣になった加藤高明に、三女は終戦直後にやはり総理大臣となった幣原喜重郎に嫁いでいる。母の兄、久弥は三菱の三代目社長になった。岩崎家は初代弥太郎のあとを弟の弥之助が継ぎ、三代目は弥太郎の長男久弥、そして四代目は弥之助の長男小弥太というふうに継いでいた。
 その小弥太の時に太平洋戦争の結末がつき、大三菱は「財閥解体」という悲運に遭ったのである。それはそれとして、私は二人のおじが総理大臣となり、もう一人が日本一の金持ちというわけである。

2.東大法学部の名物教授
大正9年(1920)に東京帝国大学法学部に入学した。この頃の法学部には名教授が多勢おられた。美濃部達吉先生、末弘厳太郎先生、牧野英一先生そして筧克彦先生などである。
 末弘先生はのちに労働問題で有名になられたが、この先生は独仏英みな達者で大変な秀才であった。体は小さいがエネルギー溢れる人だった。先生の講義は一番大きな安田講堂であったが、一人の老人がいつも一番前で講義を聴いておられた。この人が筧先生で、後で親しくなってから、末弘先生についてのご感想をうかがったところ「実証的な方ですね」とただ一言。ずっと後になって私には意味が分かってきたのだが、それは要するにつまらぬ人間というに近いのである。
 憲法の先生は美濃部先生で、いつもハンケチを手に持ちながら原稿もなしに、「・・・なり」という文語調でゆっくりと話してゆかれる。その通り筆記すればそのままで立派な文章である。だからすぐ本にしてもいいような名調子だった。当時、国粋的な上杉慎吉先生との間で「天皇機関説」を大論争していた。

3.終戦時の私の役割
1945年、終戦時の私のポストは横浜正金銀行の総務部長兼調査部長であった。占領軍は9月半ばから正金銀行の検査を始めたが、総務部長として私が応対した。10月には東久邇内閣が退陣して幣原内閣が生まれた。幣原さんは、当時日銀総裁であった渋沢敬三さんに大蔵大臣を頼みたいといった。私は戦争中、家内と二男とを御殿場に疎開させて、私と長男は三田の渋沢家に同居していた。私は渋沢さんに、引き受けるべきだ、といった。こういう時には、男は頼まれた仕事は何でもやるべきだ、できる出来ないは問題にすべきでない、というある人の言葉を、私は至言と思ったから渋沢さんにその通りに言った。
 渋沢さんはとうとう引き受けることになったが、2週間ほどしたころ渋沢さんが、「君にやってもらいたいことが出来た」と言われた。大蔵省もGHQとの独自の終戦連絡部を持つ。その部担当だという。こうして私は、20年勤めた横浜正金銀行に別れを告げた。昭和20年の10月である。

木内 信胤(きうち のぶたね、1899年7月30日 - 1993年12月5日)は、日本経済評論家日蓮宗[1]

  1. ^ 木内信胤氏追悼(外部リンク参照)
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