時国益夫 ときくに ますお

食品

掲載時肩書麒麟麦酒社長
掲載期間1969/02/28〜1969/03/21
出身地石川県輪島
生年月日1893/02/12
掲載回数22 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他四高(金沢)
入社キリンビール
配偶者江口定条三女
主な仕事神埼工場、軍隊、仙台、欧州視察旅行、スタウト、横浜、
恩師加藤医師
人脈西田幾太郎・河田重(四高上)松田伊三雄、黒川利雄、一力次郎、
備考平氏・落人時忠の子・時国の末裔
論評

(1893明治26.2.12―1989.9.1)は石川県生まれ。実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。妻のツルヱは貴族院議員江口定条の三女。父は岩倉村長や石川県農工銀行取締役を務めた時國甫太郎。広島高裁長官の時国康夫は長男。

1.明治時代のしつけ(平氏落人の地方豪族)
親に対してモノをいう場合、必ず片膝をついて言わせられた。食事なども、長幼の序が定まっていて、家族の長である父親を上座に、以下歳の順に並んだ。箸も父がとり始めるまでとってはいけない。父が晩酌をやる時は、父が酒を飲み終えて、ご飯にかかるまで私たちは膳を前にじっと静座して待っていなければならなかった。また、食べ終わっても、父が立つまで私たちも座を立ってはいけなかった。おかげで、私は正座なら何時間でも我慢できる修練を積んだ。
 そのほか、私たちは、庭を茶の湯の言葉でいう「露地」と呼んでいたが、女のきょうだいは、茶の湯と生け花が、必須のしつけだった。私も、見よう見まねで、心得だけは自然に覚えた。ただ毎年4月24日は、先祖の命日に当たり、この日は父、母をはじめ、一家が正装して先祖の墓参りをするのが習わしでした。

2.欧米にビール視察旅行・・・昭和4年(1929)
英国のビールといえばスタウトである。そのスタウトの中でも有名なのがバスという会社がつくるバス・スタウトと、ギネス会社がつくるギネス・スタウトがある。一口にスタウトといっても、いろいろの種類がある。そしてバス・スタウトの中でも、一番色が濃く、アルコール度の強いものが、スタウト・ナンバーワンと呼ばれていた。アルコール度10%のこのスタウトは、飲んでみると、まるで葡萄酒のようにねっとりとして強かった。
 次は本場ドイツへ渡った。ここはビールの本場だけあって、ビール醸造家が一村に一軒ぐらいの割合であった。しかし、それぞれ独特の味はあるが、ほとんどがピルスナータイプ(ビルゼンふう)のビールだった。大体、ドイツビールはベルリンビール、ドルトムントビール、ミュンヘンビールの3つに大別される。味の点では、ベルリンビールが一番まずく、ベルリンのビールがうまかったと言えば、ドイツ人流には、その人はビールの味が分からないということになるそうだ。代表的なのはミュンヘンビールで、これはやや色が濃く、苦みの少ない甘口で、麦芽の香りが強く、コクがある。ビールは日本酒のようにチビチビ飲む酒ではなかった。
 私はドイツの後で、チェコのピルゼン、オーストリアのウィーン、それにイタリア、フランス、デンマークなどを回り、各地でビールを試したが、最もうまいと思ったのは、やはりピルゼンのピルスナータイプのビールであった。私は、6ヶ月余の欧米の収穫を自分の舌と頭の中に、がっちりしまい込んだ。

3.私の楽しみ
新工場の完成で楽しみなのは、新工場の第1号ビールが飲めることである。第1号ビールを社長が味わうのは長い間の慣例である。昔はテストの意味があったかもしれないが、今はテストの必要はない。ビール造りは、自分も経験した工場長以下、技術者たちに任せておけばよい。心配する必要は全くない。
 私は今年で、会社に入って52年、毎日飲んでいるから、私の舌は誰よりもキリンビールの味に馴染んでいる。それで工場の人たちは私の審判をあてにしている。「正真正銘のキリンビールです」という言葉が私の口から出るのを期待しながら、私の飲むのを注視する。どんないいビールでも、”キリンビール“でない以上、不合格である。キリンの技術者は、キリンビールの味を忠実に追及することが本務であることを、みんな知っているからである。”ビールはのどで味わえ”という言葉があるが、舌で味わい、のどで楽しむ飲み物である。テストの時、グイと飲むのは、のど越しの爽快さ加減をみるためである。私は今でも、毎日9つの工場から送られてくるビールをテストするのを日課とし、楽しんでいる。

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