春日野清隆 かすがの きよたか

スポーツ

掲載時肩書日本相撲協会理事長
掲載期間1982/12/04〜1982/12/31
出身地東京都
生年月日1925/02/20
掲載回数28 回
執筆時年齢57 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社メッキ工場
配偶者関西割烹 次郎・長女
主な仕事水車ふみ、s13、13歳で入門、s14春 双葉山負け、マムシ、1場所48手
恩師栃木山ビー ル6、酒2升
人脈千代ノ山(2年後輩)、吉葉山、若ノ花 (全勝対決で敗れ引退決意)3→4場所(s28)
備考5年28場所(横綱)
論評

新弟子:13歳7ケ月で入門
小学校では体格はずば抜けていても、相撲界に入ればまるでキリギリスである。体重が足りなかったので、検査の日「とにかく朝、できるだけ食え」のアドバイスで食べる。順番を待つ間も、胃に詰まりに詰まっているものが今にも吹き出しそうになり、何度も天井に向いて、どうにかこらえた。ようやく順番が来て、前の男が終わったとたん、私は言われた通りサッとハカリに乗った。19貫の分銅は弾みでピンと跳ねあがり、私はその瞬間、サッと降りた。とっさに「よーし、19貫」と検査官は言ってくれた。しかし続けて、「ヨッ、無理したな。早う洗面所に行って来い」と言った。駆け足で洗面所に飛び込み、くじらの潮吹きのように出すべきものを勢いよく出して、清清とした気持ちになった。

 稽古:場所中は、午前1時に前相撲が始まり、2時ごろに終わるとまっすぐ部屋に帰って2時間ほど寝直し、4時に起きてそのまま、けいこ場に下り、四股(シコ)、鉄砲、申し合い、栃ノ峰関の指導と続いた。ただ場所中は、けいこを落とすのが普通だった。場所前や巡業中のような猛烈な荒げいこはせず、私らアンコ(新弟子)は、上の人の体ならしに使われた。けいこは11時過ぎに終わり、待望のチャンコを食べて再度寝直しである。その間、新米の我々はチャンコ番、掃除番、関取衆の付け人と分かれ、それぞれに忙しかった。

 双葉山、敗れる:私の初土俵の昭和14年春場所、4日目に69連勝の双葉山が安芸ノ海に外掛けで敗れた。座ふとんが飛ぶ、灰皿が飛ぶ。あちこちでもうもうと灰が舞う。そして、場内を揺るがす大歓声。何がどうなっているのか、あんな大混乱は、まず相撲史上二度とないことであろう。

千代ノ山:千代ノ山関は2年後輩であったが、彼の入隊中に相撲界で頭角を現し、大関となっていた。同門から横綱を出すため、千代ノ山関と猛烈なけいことなった。彼は猛烈な突っ張りである。腰がよく入り全体重がのった本格的な突っ張りで、1回2回ならまだしも、これでもか、これでもかと何十ぺんとなくくらうとたまったものではない。それも胸や肩を張られるならまだいいが、あごあたりに何発もやられると、口の中がぐちゃぐちゃになってしまうのだ。血ツバを吐き出してガーンとぶつかり、またバシッバシッとやられて、頭はクラクラ、口の中はぐちゃぐちゃという連続であった。まるでハンマーでぶんなぐられるようなものであった。

栃若時代:横綱の後半は、若乃花とまるで交代のように優勝した。若乃花とは彼が小結、関脇の頃から激戦を闘わすことが多かった。千秋楽で勝った方が優勝という場所も再三あり、全勝と優勝の両方を千秋楽にいっきにつぶされたことが2回もある。逆に彼の大事な場所を私がつぶしたことも少なくない。大きく分けて前半はこちらがよく、後半は向こうにしてやられたといっていいだろう。

横綱全勝同士の千秋楽対決
昭和35年大阪の春場所、欧州旅行後の私は14日間の勝ちっぱなしで、千秋楽に全勝どうしの若乃花と対戦することとなった。しかし、スタミナ切れを考えてやや強引に技を仕掛けて敗れた。これが引退の気持ちに繋がり、翌5月場所の3日目に引退を発表した。

気力が大事:私の入門したころは、体がキリギリスでいくら負け続けても、7人も8人も兄弟がいて両親が苦労していることを思うと、絶対に家に帰れなかった。負けても負けても、なにくそと思う以外、道はなかった。その点、今の若い者は、ある意味でかわいそうと言えるかもしれない。かりに相撲がいやになれば、どこへ行っても食べるだけは食べられるのである。しかし、たとえこうした恵まれた世の中でも、やはり気力のないところに、本当の仕事はないと思うのだが・・・。

春日野 清隆(かすがの・きよたか)は、大相撲春日野部屋師匠名跡である。

  1. 9代目春日野清隆親方栃錦清隆を参照。
  2. 11代目春日野清隆親方⇒栃乃和歌清隆を参照。
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