明石康 あかし やすし

行政・司法

掲載時肩書前国連事務次長
掲載期間2000/04/01〜2000/04/30
出身地秋田県
生年月日1931/01/19
掲載回数29 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他山形高、バージニア大大学院,フレッチャー・スクール大学院
入社国際基督教大助手
配偶者化粧品娘
主な仕事フルブライト留学、国連事務、ウ・タント(国連大学)、カンボジアPKO(ポル・ポト)、ユーゴ紛争、
恩師国連、ジョーダン部長
人脈小和田恒、本間長世、永井道雄、林健太 郎、宮崎勇、有吉佐和子、シアヌーク、平山郁夫
備考大平外相媒酌
論評

もと国連官僚。東大大学院終了。バージニア大大学院,フレッチャー・スクール大学院に留学し,極東情勢についての報告で注目され,日本の国連加盟の翌1957年,日本人として最初の国連職員となる。政治担当官としてハンガリー動乱,キューバ危機などの情報収集,政策立案にあたる。1972年行政担当になり,国連大学設立委員会事務長を務め,東京誘致決定に尽力した。

国連職員への動機
ハーバード大学とフレッチャー大学院の両方から入学許可がでたが、奨学金の多いフレッチャーを選んだ。そこで、1956年12月半ばに恒例の国連見学旅行が行われた。たまたま日本の国連加盟が実現し、重光葵外相の加盟演説を聞きことができた。戦争の惨苦を味わった日本の平和への思いが、率直に表されていた。加盟を目撃した足で、国連事務局に政治部長のジョーダン氏を訪ねた。その年の夏、国際学生セミナーがミネソタ州で開催された折、極東の政治情勢について話をしたが、参加者の中にジョーダン氏が居て、私の話に興味を持ってくれ、日本加盟の暁には国連の政務担当官として応募を進めてくれた。彼の上司の政務局長にも会い、国連事務局入りを決めた。

国連大学の設置と誘致
ウ・タント事務総長が国連大学の設立を提案したのは1969年。戦争のない世界をつくるためには国境を越えた言動のできる青年を育成する場が必要だと考えたのである。多くの途上国と日本を含む一部先進国は賛成したが、米、英、仏などは冷淡だった。財政的負担を嫌ったし、自国の大学は既に国際的だと考えていた。既存機関との重複を避け、ウ・タント提案の内容は、国際的に緊急かつ重要な問題に関して各国の研究者や研究機関が協力するための世界的ネットワークに変わり、予算も国連に頼らない自発的拠出で賄うことで承認となった。国連大学本部の日本誘致は、設置経費は全額日本負担で、運営費もわが国が半分以上の拠出しているのが現状である。

外務省の5年間在職(温かみのある雰囲気)
1974年から外務省に中途入省し、国連日本政府代表部に配属になる。参事官、公使、大使を務め、5年ほどして国連に舞い戻った。外務省独特の電報の書き方や役所のしきたりに面食らい、習得するのに時間がかかった。しかし、秋深し隣は何をする人ぞ、といった国連事務局の個人中心の仕事に比べ、日本的チームワークが、効率的な点も多かった。クリスマスになると、普段は威厳に満ちた斎藤鎮男国連大使がサンタクロースに扮して、部下の子供たちににこやかにプレゼントを配った。そんな職場の温かみのある雰囲気は、ややドライな国連より居心地が良かった。

国連勤務で感じたこと(国籍を超えた仲間意識づくり)
国連では確かに民族や文化により違いが存在する。しかし個人差の方がもっと大きく、性格や資質の分布は国籍を超えている。ということは、国籍のいかんにかかわらず、共感が成立するということにもなる。国連には今、180以上の加盟国がある。その中で仕事をしていると、自分が日本人であることを意識しないではおれない。私は自分のルーツを意識し、それを誇りにしながらも、自意識過剰に陥らず、国籍を超えた仲間意識の中で仕事ができたのを幸運だと思っている。

2016年12月19日、東京都渋谷区にて

明石 康(あかし やすし、1931年1月19日 - )は、日本の外交官特定非営利活動法人日本紛争予防センター会長、名城大学アジア研究所名誉所長、群馬県立女子大学外国語教育研究所所長、京都文教学園学術顧問、神戸大学特別顧問・特別教授。国際連合事務次長国際連合事務総長特別代表を歴任。

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