日向方齊 ひゅうが ほうさい

鉄鋼

掲載時肩書関西経団連会長
掲載期間1987/01/01〜1987/01/31
出身地山梨県
生年月日1906/02/24
掲載回数31 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他東京高校
入社海軍工廠造船所
配偶者友人森の妹
主な仕事住友合資、大臣秘書、住金、(軽金属、精密、特殊金属)分離子会社、住金事件、関空、文化学術研究都市
恩師・恩人小倉正恒、広田寿一
人脈朝比奈孝、宮城音弥(高校)愛知揆一(大学)長谷川周重(住同期)、川田順、山口誓子、西尾末広、佐治敬三、佐伯勇、中司清
備考自由競争哲学
論評

明治39年〈1906年〉2月24日 – 平成5年〈1993年〉2月16日)は山梨県出身。実業家。住友金属工業名誉会長、第8代関西経済連合会会長(1977年 – 1987年)。新日鐵住金会長、経団連会長の稲山嘉寛が「ミスター・カルテル」と呼ばれ、企業経営にもつねに「協調哲学」を打ち出したのに対し、日向は、市場経済思想に基づく「競争哲学」の信奉者として知られ、政府との対決も辞さなかった。

1.小倉正恆大臣の秘書に
昭和16年4月4日、小倉さんが近衛文麿氏に請われて国務大臣に就任することになった。その3日前の4月1日、上京の車中で、小倉さんは入閣の話をされ、私に秘書官になるよう求められた。
小倉さんは国家意識の極めて高い方で、参禅、剣の修行、心学研究と常に自己鍛錬を続けておられ、修養団活動にも資金援助をされていた。秘書役として最も印象に残るのは、大臣就任前年の昭和15年の「電力演説」である。石炭不足から関西地方を中心に電力が十分供給できなくなり、政府は石炭会社に出炭量を強制割り当てしようとした。貴族院議員でもあった小倉さんは貴族院の演説で、「もし石炭が欲しいなら、価格誘導、石炭労働者優遇など増産刺激策をとるべきだ」と提案、政府の石炭、鉄鋼、電力などに対する価格抑制策を官僚統制として強く批判された。
この演説原稿は、小倉さんが電力業界の大御所、松永安左エ衛門氏ら多くの人たちの意見を聴き、それを私がまとめ、津田秀栄さんにも見てもらった。翌日の新聞には「火を吐く熱弁」と激賞し、この演説が第二次近衛内閣に入閣するきっかけになった。

2.社長就任での挨拶と実行
昭和37年(1962)10月、私は56歳で社長に就任した。日本の鉄鋼生産が8年ぶりにマイナス成長となった不況の年だった。就任の挨拶で「わが社の経営の根本方針は、信用を重んじ確実を旨とする住友精神にある。しかし私は、その伝統に積極性、需要家尊重、原価意識の徹底という3つの理念を加えたい」と述べた。そして、住友軽金属(アルミ・伸鋼)、住友精密(航空機器)、住友特殊金属(電磁気材料)などを子会社として次々と分離していった。住金を鉄鋼専業とし、鉄以外は製品の種類ごとに独立させる。それは戦後総司令部(GHQ)と約束したことでもあり、各社が経営の自己責任を貫いていく最良の方法であった。

3.住金事件の内情
いわゆる「住金事件」が起きたのは、住金が高炉建設を軸に、業容の急展開を進めていた、そのさ中であった。和歌山に高炉2基体制ができたのは昭和38年(1963)4月、さらに2年後には3号高炉が完成した。そのころから業界の雲行きが怪しくなってきた。
 事件の発端は40年11月15日、同年度第三四半期(10~12月)の粗鋼減産について住金が、通産省の指示に異を唱えたことにあった。当時の状況下で、一民間企業が行政官庁の指導にあからさまに逆らったのは、異例の出来事といえた。
 減産ワクを決める基準時の取り方、新設備の生産枠など問題はいくつかあったが、もっとも容認できなかったのは、輸出の取り扱いだった。当時わが国の外貨準備高は20億ドルが天井で、輸出振興が至上命題になっていた。それなのに、生産枠は国内と輸出をひっくるめた総枠で抑え込まれたのである。「国内の市況対策として国内ワクを制限するのはやむを得ない。しかし輸出は別枠にすべきである」とわれわれは主張した。輸出比率が高い住金にとって、死活問題になるという現実的な事情もあった。
 三木武夫通産相や通産省の佐橋滋事務次官に掛け合っても、住金に対して「粗鋼生産用原料炭の輸入割当を削減することもやむを得ない」と通告してきた。考えると、この根はもっと深い所にあった。粗鋼生産のシェア争いである。八幡、富士製鉄など先発各社は、住金、川崎製鉄、神戸製鋼所の関西3社の追い上げを阻むため、ここで一気にシエアを固めておきたい意向を持っていたようだ。しかしそれでは後発メーカーは立つ瀬がないし、そもそも自由競争原理に反する。特に住金は35年度からの5年間に、粗鋼生産シエアを5.8%から10.1%へと伸ばしていた。もっともこれは子供から青年になる過程で、急激に成長するのと同じようなものだった。
 この事件を通じて世間で対比されたのが、「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」である。稲山さんの考えはシエアを固定しようとする一種のカルテル論であったが、これも先発メーカーの既得利益をまもろうとする立場から出たのかもしれない。騒ぎはますます大きくなってくると、財界人も動き出し、ある日、中山素平日本興業銀行頭取の仲介で、永野重雄さん、稲山嘉寛さんに会った。必ずしも議論がかみ合ったわけではなかったが、結局私が矛を収めることになる。一つには住金の主張を世論が支持してくれたこと、一方では市況が一段と悪化していたからである。

日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39年〈1906年2月24日 - 平成5年〈1993年2月16日)は、日本実業家住友金属工業名誉会長、第8代関西経済連合会会長(1977年 - 1987年)。山梨県出身。

新日鐵住金会長、経団連会長の稲山嘉寛が「ミスター・カルテル」と呼ばれ、企業経営にもつねに「協調哲学」を打ち出したのに対し、日向は、市場経済思想に基づく「競争哲学」の信奉者として知られ、政府との対決も辞さなかった。勲一等旭日大綬章受章。

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