掲載時肩書 | 住友生命会長 |
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掲載期間 | 1991/07/01〜1991/07/31 |
出身地 | 群馬県 |
生年月日 | 1912/12/01 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 住友生命 |
配偶者 | 山口>新井洞厳(画家)、一高友妹 |
主な仕事 | 組合長、人事課長、財形貯金、関西師 友会、医師年金、医師奨学金 |
恩師・恩人 | 安岡正篤、芦田泰三、北沢敬二郎、 |
人脈 | 村山達雄、丸山真男、長谷川峻、弘世現、日向方斉、土井正治、松下幸之助、武見太郎、平沢興 |
備考 | 結婚式・養父師:安岡正篤(主賓)、友:吉川英治(祝辞) |
1912年〈大正元年〉12月1日 – 2003年〈平成15年〉11月27日)は群馬県生まれ。実業家。住友生命保険社長・会長。その他にも、思想家・安岡正篤の思想に共鳴して親炙し、1977年(昭和52年) – 2003年(平成15年)まで関西師友協会会長を、1999年(平成11年) – 2000年(平成12年)までは松下政経塾理事長を務め、関西経済同友会代表幹事も歴任した。
1.ノモンハン事件で右足切断
昭和14年〈1939〉5月11日ソ連軍と外蒙軍は外蒙古と「満州国」の国境を越え、日本軍と衝突してノモンハン事件が勃発した。右足をガーンと殴られたような気がした。同時に右手の小指にも激痛が走った。8月20日払暁のことだ。ソ連軍の大攻勢が始まり、ハイラルの日本軍は必死で反撃した。私は砲弾の破片を全身に浴び、特に右足の出血が激しく、夜まで塹壕に寝かされていた。中国東北部の夏は暑い。その日もカンカン照りで、摂氏37、8度くらいまで気温は上がり、喉はカラカラだ。「水が欲しい」と訴えても「飲んだら死ぬぞ、辛抱しろ」と水を浸した脱脂綿で唇を湿らせてくれるだけ。何人も戦友がここで亡くなった。
8月27日、いよいよ手術となった。「ガス壊疽になっているし、腰にも傷がある。しかし腰の傷まではガス壊疽に罹っていない。少し残してやる」と院長が幸運にも判断してくれた。こうして私は右足を失った。
10月30日に帰国、東京牛込の第一陸軍病院に入院した。その数日後、一高時代の同級生・丸山真男君(東大名誉教授)と弁護士になった堀切真一郎君が来てくれ、口々に「靖国神社に行かなくて良かったなぁ」と言ってくれた。友人のその一言に「生きていてよかった」と実感したのだった。
2.戦死者の保険料支払い
終戦直前の20年(1945)8月1日、私は保険金課長の辞令が出た。住友生命では最年少の課長であった。喜んでいる状況ではなく、戦争で保険金支払いは増える一方だった。生命保険制度は本来、戦争の危険負担を目的としていない。その原則からすると、戦地に赴く人は保険に入れなかったり、保険料を割り増しして当然となる。それが国の要請に応じて特別な保険料は徴収せず、保険金も無条件支払いだった。
課長になったとき、支払いが3千~4千件たまっていた。「1週間で払ってあげなさい」。いきなり小松正則専務(後に社長、元住友銀行頭取小松康氏の父君)に命じられた。驚いて「とても無理です」と答えると、「泊まり込んでもやりなさい」と厳しく諭された。遺族の心中を思えばできないはずがないだろう、そういう専務の真意をとっさに理解しなかった私は恥じ入るばかりだった。
8月15日、終戦の日を迎えた。その日以降、支払業務に忙殺されるようになった。「保険金をもらってもうちの息子は戻ってこない」。思わずもらす遺族の一言が私の胸に重くのしかかった。
3.資産運用に投資用不動産ビルの建設
昭和41年(1966)3月1日の取締役会で芦田泰三社長は会長になり、専務だった私が社長に指名された。社長に就任してまず、会社の体力をどのようにつけていくかを考えた。そこで不動産投資に目を着けた。この分野では明らかに同業他社に立ち遅れていたのである。住生は昭和22年に新会社として発足したときには、自社所有の不動産をほとんど持っていなかった。営業拠点は賃借して間に合わせるか、木造二階建ての建物でしのいでいた。30年代になってからも鉄筋コンクリート建物は3階建てがせいぜいだった。
さて、本格的に営業用不動産をと見渡しても全国の都市の駅前とか目抜き通りのいい所は銀行や他の生命保険会社のビルで占められている。やむを得ず中心部から少し離れた空き地などを手当てし、ビルを建設していった。それも営業拠点だけでなく、テナントを入れる投資用不動産とした。投資効率を上げるためには高層化・大型化する必要があった。というわけで、札幌や仙台、名古屋などで次々にビルを出した。
東京と大阪の両副都心建設にも住生が力を貸した。新宿副都心にある高さ210m、52階建ての新宿住友ビルは、東京都から淀橋浄水場跡地を譲り受け、46年〈1971〉11月に着工している。当時は「東洋一」と言われ、この地区のオフィスビルの第一号でもあった。新宿駅から離れているので、「テナントが見つかるか」と不安がる向きもあったようだ。しかし、周囲に続々と新しいビルが建つようになり、不安が解消できた。
4.安岡正篤先生
先生を指導者と仰ぐ関西師友協会が発足したのは昭和32年〈1957〉。すでに、全国師友協会があったが、関西は大阪府生まれの安岡先生の郷里で弟子も多いので、こちらでも作ろうという話が起こった。
先生の高弟、伊与田覚さん(現成人教学研修所長)と久保田鉄工(現クボタ)の東田和四さん(現関西空港ビルディング会長)らと、私が世話人となり、関西師友協会を作った。
安岡先生は時々、関西を訪れて一般の人たち向けに「先哲講座」という名目で講義をされた。それとは別に、まとまった講義をされたのは久保田鉄工と住友銀行、近畿日本鉄道でだった。特に住友銀行の岩沢正二専務(当時)は、「人間味あふれる銀行にしたい」と念じ、52年〈1977〉に幹部を対象にした講義を計10回開いた。それらの講義録はそれぞれ、単行本になって市販されている。
安岡先生は私にとって生涯の師であった。分からないことがあれば、親しくお目にかかって教えを請い、悩み事があれば、お訪ねしてご教示を受けることが常だった。何を聞いても必ず適切なお話をしていただけたものだ。先生との関係は、養父の画家洞厳が私淑していた関係で、私の結婚式に主賓としてきていただいた経緯があった。