斎藤英四郎 さいとう えいしろう

鉄鋼

掲載時肩書新日本製鐵会長
掲載期間1985/06/01〜1985/07/02
出身地新潟県
生年月日1911/11/22
掲載回数32 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他新潟高校、神戸商大
入社三菱鉱業(現三菱マテリアル)
配偶者永野護娘友
主な仕事小樽支店、日本製鉄(永野縁)> 八幡製鉄>新日鉄、経団連
恩師・恩人大内兵衛、永野重雄
人脈中山恒明(新潟)、北裏喜一郎(神戸)、白川義正(ゼミ)、君健男、池島信平、大槻文平(7上)、稲山嘉寛
備考代々:大地主、3/5兄弟が医師、信条「あるがままに」
論評

1911年11月22日 – 2002年4月22日)は新潟県生まれ。実業家。大学卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)入社。のち、日本製鐵に移り、八幡製鐵専務、新日鉄専務、副社長などを経て社長に。新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。

1.三菱鉱業から日本製鉄へ
入社6年目、「日本製鉄から、ぜひ来て欲しいという話があるが、斎藤、君はどうするか」と小樽支店長の古村誠一さん(後、三菱鉱業社長)から聞かれた。「はいそうですか」と軽々にはお答えするわけにはいかない。
 これには伏線があり、私の家内俊子は永野護氏の長女と親しく、この愛娘長女と結婚したのが私の親友白川義正君で、その結婚式が縁で、永野護ご夫妻の仲介もあり、私たちは結婚したのだった。この護氏の弟永野重雄さんとはそれ以来の親しい付き合いで、重雄氏は当時八幡製鉄の購買部長をしておられた。
 その永野さんが私を指名してきたのだとすれば、さりとて直ぐには態度を決めかねた。いろいろ先輩や同僚に相談し、迷った挙句、私は結局、日鉄の申し出を受け入れることにした。私自身いつまた召集されるか知れず、わが国の行方を情報の中心である東京で見届けたいという気持ちが強く働いたからだった。

2.日鉄分割で八幡製鉄に(永野さんは不機嫌)
昭和25年(1950)4月1日をもって日鉄が分割され新体制に移行することが決まった。製鉄部門は八幡製鉄と富士製鉄とが引継ぎ、ほかに海運担当の日鉄汽船、耐火レンガ製造の播磨耐火煉瓦の2社を設立するというもの。八幡は三鬼隆さんが、富士の方は永野重雄さんが社長に就任するというものだった。話し合いの結果、金子製品課長、堀川資材課長は富士製鉄へ、私は八幡製鉄に行くことが内定し、これを前提に関係課員を割り振ることとなった。
 八幡に残る稲山さんとも相談の上、私は原燃料課員の配置についてはベテラン社員をなるべく富士の方に多く配置した。富士の製鉄所は休止期間が長く、これから作業を再開する工場が多かったからだ。こうして両社への配分案が一段落した時、私は永野常務から呼び出された。「富士に来てくれ」と言われる。
 縁のある永野さんからの要望を断われるわけがない。しかし、自分が八幡に行くことを前提に、富士に傾斜した人員配置を決定しておき、あとで私が富士に行くとなれば、結果的に八幡に対する裏切りとなる。「最初になぜ私を富士へと言ってくださらなかったのか・・」。私は切々と苦衷を訴えた。
 すると永野さんは不機嫌なときの癖で、爪の指をかじりながら、「いいよ、もういい」と、ぶっきらぼうに突き放された。部屋を出る時、私は申し訳なさに身が縮む思いがした。でも不機嫌さはこのときだけだった。

3.稲山さんの「がまん」哲学
結婚披露宴のスピーチでは、永野さんは親孝行、稲山さんはがまんの話と決まっていた。10年くらい前、ある人の結婚式で、稲山さんは例によって「何事もがまんが大切」とがまんの哲学を披歴した。さて、次に私の番になって、私は「がまんが大切なのはもちろんだが、褒め合うことも肝要です」と考えを述べた。
 ところが、私の挨拶が終わるやいなや、稲山さんは再び立ち上がって、「彼はがまんが一番で、褒めるのはその次と言うが、本心はそうではないらしい」と前置きして、またまた「やっぱりがまんが一番」とぶった。結婚披露戦の席で2度の挨拶など前代未聞であろう。満場、笑いの渦となった。
この一言さえがまんすれば、がまんの哲学も本物になるのにと、私は稲山さんと話し合ったものである。しかし、稲山さんの哲学が一朝一夕で出来上がったものでないことは、40年を超すお付き合いで私は十分承知している。がまんの哲学は、40年前からの筋金入りである。それは単に対人関係の場に止まらず、常に世界の中の日本という視野をも内包している。

斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。

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