廖一久 リャオ・イーチュウ

学術

掲載時肩書台湾海洋大学終身名誉教授
掲載期間2023/08/01〜2023/08/31
出身地台湾・台中
生年月日1936/11/04
掲載回数30 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他台湾大学
入社藤永クルマエビ研究所
配偶者水産学者(9下)
主な仕事蒋介石3選反対、独房、クルマエビ、帰台しブラックタイガー、ボラ養殖、サバヒー、水産試験所長、海洋大学、
恩師・恩人王友欒、蒋経国、大嶋泰雄、
人脈武田泰淳、戴國輝、楊榮宗、大濱信泉、李登輝総統、
備考祖父・父とも政治家(二人とも妻は日本人)
論評

台湾からは初めての「履歴書」登場人物でした。1991年に米国フルブライト上院議員執筆を担当した勝又美智雄記者は次のように書いている。日本経済新聞はグローバル化に対応するため、2001年以降、年に「私の履歴書」12人登場させるうちの1人は外国人とすることが定着化した。そのメリットは、(1)日本人読者に外国の著名人の生き方、考え方、その素顔を詳細に伝えられる、(2)主人公の生き方を通して、その国の政治・経済・社会・文化事情を分かりやすく伝えられる、(3)主人公と日本との接点を意識的に強調して、その国と日本との交流の参考例にする、であった。確認すると、昨年2022年はリッカルド・ムーティ(指揮者)が、2021年はブンシャット・チョクワタナー(サハ・グループ会長)が登場していた。3つのメリット通りの内容だな、と思いながら今回は読むことができた。

1.玉音放送後の台湾
1945年8月15日の正午に玉音放送を聞いた。現在の台湾の標準時は日本より1時間遅いが、当時は日本本土と時差がなかった。「一大事だ」。8歳の私も幼いながらもそう感じた。日本人の知人たちが我が家まで別れを告げにやって来て、涙を流しながら去っていった。代わって中国大陸からやってきたのが、国民党の兵士たちだった。今も記憶に焼き付いているのは彼らの素行の悪さだ。当時の台湾には畳敷きの日本式家が少なくなかったが、国民党の兵士たちは土足で畳に上がった。
 そして始まったのは台湾語による授業であり、北京語を学ぶ「国語」の授業だった。以前は「国語」といえば日本語だったが、同じ名前でも内容は別物になったのである。国民党政権が日本語を封じ込めたことは、47年の二・二八事件の主因だった、とも指摘されている。

2.二・二八事件で多くの知識人が粛正される
1947年2月、台湾の現代史に深い刻印を残す事件が起きた。日付を取って二・二八事件と呼ばれる。発端は2月27日、専売制に違反して台北で闇タバコを売っていた女性に警官たちが暴力を加え商品とお金を没収した。この女性に同情して集まった市民に警官が銃を発砲し、死者がでたことで大衆的な怒りに火が付き、翌28日以降、台北を始め各地で激しいデモが発生した。
 3月8日増援部隊が台湾に到達するや政権側は反撃に転じ、武力鎮圧に成功した。そして始まったのが、反政府的と目された人々に対する粛正である。いわゆる「白色テロ」で、その最大の標的は日本統治時代のエリート層だった。結果として台湾は多くの優秀な人材を失った。我が家では父がかなり危険な立場にあると考えられた。壮年で日本留学経験者だったうえ、舎監長として勤めていた台中師範学校(現・台中教育大学)には反政府暴動に参加した学生が少なくなかったからである。そこで父は家の外に一歩も出ないようにし、対外的には「父はいない」と私はやむを得ず嘘をつかなければならなくなった。

3.クルマエビの研究
1962年4月、東京大学農学部水産科に入学した。研究テーマとして大島泰雄教授に最初に提出したのは「タウナギの人工繁殖」だった。タウナギは台湾では炒め物や唐揚げなどにして広く食べられている淡水魚である。しかし先生から指示されたのが「クルマエビの摂餌に関する研究」だった。先生の説明によれば、科学技術庁(現・文部科学省)から依頼があったテーマだということだった。当時の私はエビのエも知らない状況だったので随分と悩んだが、とにかく先生の指示に沿って研究しよう、と腹をくくった。
 当時エビの摂餌に関する研究情報は皆無に等しかったので困った。救いの神は日本のお家芸ともいうべき養蚕の伝統だった。カイコの人工飼料の開発にかかわる情報が参考になったのである。もう一つ、研究開発を立てる上で大いに助けになったのは、クルマエビ独自の習性である。クルマエビは日中は砂に潜る。そこで、エサの種類に応じて砂から這い出してくるクルマエビを数えることで、どのエサをどれくらい好きか、つまり嗜好性の度合いを明快に判定できると考えたのである。
 用意したエサは15種類。それぞれについてクルマエビがどれほど好むかを、アサリを基準にして調べた。その結果、イソメやゴカイなどはアサリより好まれること、フナムシやマガキはアサリと同じ程度に好まれること、サバやマハジはアサリより好まれないこと、という3つのカテゴリーに大別できた。
 実験でいささか工夫を凝らしたのはエサの与え方だった。2種類以上のエサを交互に与えて摂餌量の多寡を比較する方法を比較検討したのである。2種類以上のエサを与えて選択させる方法が、より簡便で利点も多いことがわかった。以上の実験成果を「クルマエビの餌料に対する嗜好性」と題した修士論文にまとめて、64年11月に提出した。

4.台湾でブラックタイガーの養殖に成功
1968年7月、博士号を取得していたので台湾の水産試験所に迎えられた。台湾での養殖に最も適したエビは何だろうかと考え、熱帯性で成長が速い特性を持つウシエビ(中国語で草蝦)が頭に浮かんでいたのである。ウシエビはクルマエビの仲間では比較的大型で、後にはブラックタイガーという別名で広く知られるようになる。
 素早い成果を挙げられたのは、日本で学んだクルマエビの飼育ノウハウを、ほぼそのまま応用できたからである。ブラックタイガーは産卵と同時に受精し、水温27~29度という条件下で12時間後には孵化する。その後は大変な勢いで変態を繰り返し、およそ1か月で稚エビになる。この時期になればエビは環境変化にもかなり適応できるようになっていて、養殖池で放養すれば3~4か月で30~70グラムの大きさに育つことがわかった。
 以上のような実験の成果を農村復興委員会の英字刊行物に発表したのは、1969年12月だった。間もなくこれを基に、台湾で初めての民間エビ養殖場が誕生した。70年代から台湾の沿岸各地で養殖場が開設され、80年代のピーク時には2000余りに達したのである。生産量は87年に10万トンを超え、輸出量も飛躍的に増えた。日本で消費されるエビの2尾に1尾は台湾産ブラックタイガーと言われたほどである。

5.ボラの養殖でカラスミを
ブラックタイガーなどのエビの研究と並行して取り掛かったのがボラの養殖に向けた研究だった。ボラは日本や台湾をはじめ世界中で親しまれてきた食用魚だが、メスからとれる卵巣がカラスミの原料となることでも重要な水産資源である。カラスミは台湾では「烏魚子」と呼ばれ、日本などに輸出する名産品となっている。
 68年末、私はこの養殖プロジェクトに加わることになった。私たちはまず、従来の実験経過を詳細に検討した。気がついたのは、それまで小さなビーカーの中での実験だったので水質が安定していなかった可能性がある。そこで0・5トンの容量を持つかなり大きなタンクを用意し、できるかぎり安定した水質環境で飼育を試みた。
 その結果、69年1月に世界で初めて、孵化後30日で体長1cmと1・1cmのボラの稚魚合わせて2尾を育てることに成功したのである。それからは着実に飼育規模を拡大し、72年には2万尾を超えるまでに稚魚を育てることができた。稚魚を安定して飼育できるようになった実績を踏まえて、76年には稚魚から育った成魚が生んだ「二代目」の人工養殖にも成功した。いわば「完全養殖」にメドがついたのである。

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