掲載時肩書 | 歌舞伎俳優 |
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掲載期間 | 1958/10/27〜1958/11/13 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1888/05/10 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | 京華中学、慶応・早稲田聴講 |
入社 | 5歳初舞台 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 子供芝居、欧米視察、歌舞伎を現代語に、清元、創造舞踊、春秋座、俳優協会理事長、 |
恩師・恩人 | 小山内薫 |
人脈 | 市川左団次2、鶴沢道八、杵屋佐吉、菊池寛、どん底、桜の園、坊ちゃん、弥次喜多 |
備考 | 翻訳劇導入 |
1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)は東京生まれ。明治から戦後昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。「猿翁」は舞台で使われることが一度もなかった隠居名の名跡で、しかも改名直後に本人が死去したため実績もまったくない。逆に「猿之助」の方は53年間にわたって名乗り続けた名跡で、これが今日でも彼が二代目 市川 猿之助(にだいめ いちかわ えんのすけ)として語られることが多い所以である。
1.歌舞伎に新風
市川左団次(二代目)が新しい演劇の知識を欧米に学んで日本に帰ってきたのが明治40年(1907)の夏だった。新しい演劇運動に対しては大きな反響と、厳しい批判もあったが、自由劇場を創立したとき左団次は30歳、小山内薫先生は29歳の青年だった。古い歌舞伎の世界へヨーロッパの社会劇とでもいうべきリアルなものを大胆に持ち込んだことは左団次の偉さだったし、劇場に大きなエポックをもたらしたといってよいだろう。
第一回の試演会は明治42年((1909)11月、当時の有楽座で二日間の公演だったが、出し物はイプセンの「ボルクマン」で、これは森鴎外博士の翻訳だった。左団次のボルクマン、宗之助のグンヒルド、私はエルハルトで出演したが、装置や道具は和田英作、中沢弘光、岡田三郎助らが担当し、当時の文壇、画壇の若いインテリたちが揃って自由劇場に名を連ねていた。
2.漱石の「坊ちゃん」上演
今の人は不思議に思うだろうが、大正時代に私たちは「桜の園」をはじめ、「どん底」などその後の新劇の“忠臣蔵”ともいわれるような、いつも大入りになる作品はたいてい歌舞伎が先に手掛けてきたのだった。
関東震災の後、何か新味のある芝居をということで、松竹も猿之助がやりたがっているのだから、「坊ちゃん」をやらせようとなった。昭和2年(1927)の本郷座だったが、場所が東京帝大に近いせいもあって、学生の学芸会をやっているように、見物と舞台が一つに溶け合った親近感が出て、心も通いあう温かさに感激して初日の舞台で私は涙が流れて困ったほどだった。
これにはいろいろ思い出がある。原作には名前がないので、芝居では秋野という姓をつけ、私は秋野、すなわち坊ちゃん、山嵐が友右衛門(先代)、赤シャツが八重蔵(今の中車)、野だいこが翫右衛門などだったが、見物席からは普通の芝居ならば「猿之助」とか、「八重蔵」とか、または屋号の声がかかるところを、この芝居では役名の「坊ちゃん」とか「赤シャツ」「山あらし」などと声がかかり床を踏み鳴らしての声援で、チョッと異例なウケ方だった。
3.戦時体制下の夫婦二人きり慰問
昭和16年(1941)からの戦時体制になってからは、若い者はつぎつぎと召集で出ていき、戦死の報なども暗い気持ちで聞いた。興行といえば慰問ばかりになっていった。私は何かをやっていなければ気が済まない性質なので慰問にも各地に出かけたが、沖縄が落ちて終戦の近いころには一座の者はみんな田舎に帰ってしまって夫婦二人だけが残された。二人だけで佐世保の近くまで慰問に出かけたが、一人で芝居をやるわけにいかないので図書館から真山青果さんの「江藤新平」の脚本を借りて、私が黒紋付、羽織、はかまで朗読し、そのあと素踊りで「浦島」なんかやって一時間ほどお茶をにごしていた。
私がポータブルの蓄音機をぶら下げ、妻が紋付などの着物を入れたカバンを持って、あちこちと不便な土地を回って歩いたが、まるで落ちぶれた漫才の夫婦のようだと二人で顔を合わせて笑ったりした。
初代 | |
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屋号 | 澤瀉屋[1] |
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定紋 | 澤瀉 |
生年月日 | 1888年5月10日 |
没年月日 | 1963年6月12日(75歳没) |
本名 | 喜熨斗政泰[1][2] |
襲名歴 | 1. 初代市川團子 2. 二代目市川猿之助 3. 初代市川猿翁 |
俳名 | 笑楽[1]・華果・薊[3] |
出身地 | 東京市浅草区千束町[4][5](現・東京都台東区千束) |
父 | 二代目市川段四郎(初代市川猿之助) |
兄弟 | 初代市川壽猿 八代目市川中車 二代目市川小太夫 |
子 | 三代目市川段四郎 初代市川三四助 |
当たり役 | |
歌舞伎: 『仮名手本忠臣蔵』九段目の加古川本蔵 『平家女護島』「俊寛」の俊寛 舞踊『黒塚』の老女 映画: 『大忠臣蔵』(1957) の大石内蔵助 | |
初代 市川 猿翁(いちかわ えんおう、1888年〈明治21年〉5月10日[4] - 1963年〈昭和38年〉6月12日[3])は、明治から戦後昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋[1]。定紋は八重澤瀉、三ツ猿[3]。日本芸術院会員。本名は喜熨斗 政泰(きのし まさやす)[6]、俳名は笑楽[1]・華果・薊[3]。
「猿翁」は舞台で使われることが一度もなかった隠居名の名跡で、しかも改名直後に本人が死去したため実績もまったくない。一方、「猿之助」の名跡は53年間にわたって名乗り続けており、それ故に今日でも彼が「二代目 市川 猿之助」(いちかわ えんのすけ)として語られることが多い。