市川寿海 いちかわ じゅかい

映画演劇

掲載時肩書歌舞伎俳優
掲載期間1959/05/08〜1959/05/28
出身地東京都
生年月日1886/07/12
掲載回数21 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社9歳で初舞台
配偶者芸者見合
主な仕事小団次入門、13歳子供芝居、脇役、養子(市川寿美蔵)、左団次とロシア劇、小寿々女座、東宝、関西座頭、
恩師二代目市川左團次
人脈劇聖(9団・5菊・1左)、川上音二郎、小山内薫、白井松次郎、市村羽左衛門15代
備考大部屋出身、養子市川雷蔵、引越30回
論評

1886年(明治19年)7月12日 – 1971年(昭和46年)4月3日)は東京生まれ。大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。主に関西歌舞伎を中心に舞台を務め、初代中村鴈治郎・中村魁車・三代目中村梅玉らの死後は、三代目阪東壽三郎と並んで「双壽時代」と呼ばれる一時代を築く。

1.劇聖「団菊左」の思い出(詳細に書いているが、要点のみ)
(1)九代目団十郎:声は美声とはいえませんが、大向こうまでガンガン響き、調子の良さは無類でした。面長で、目が大きく、美男ではありませんけど立派な顔です。それだけに女形になると、どう見ても美人とはいえません。しかし、いざ踊り始めると恐ろしいもので、あんまり踊りがうまいので顔が長かろうが、皺があろうがそんなことはどうでもよくなるほど観客を惹きつけるのです。
(2)五代目菊五郎:得意は世話物です。何といっても「すし屋」の権太とか弁天小僧、髪結新三、入谷の直次郎といった生世話物が一段と優れていました。幕末の名優と言われた四代目小団次さんの芸風を継承された方で、男前は良し、押し出しは良し、調子は良しと三拍子そろった全く理想的な江戸役者でした。
(3)初代左団次:23歳のときに江戸に下り、初めのうちは大阪なまりがひどく、冷笑を浴びていたのですが、その後メキメキ腕をあげ、名人四代目小団次さんに見込まれて養子になりました。型物より新作物を得意とし、そこに団菊とは違った芸風が見受けられました。立派な顔立ち、明快な調子、間口の広い芸の持ち主で、座頭になるまでは団菊のワキを勤めていましたが、いつしか団菊と並び称されるようになりました。

2.歌舞伎に革新劇→お茶屋制打破
二代目左団次さんは八か月の洋行を終わって明治40年(1907)8月、松居松葉さんとともに帰国しました。翌41年1月の明治座公演は革新興行でフタ明けをしました。出し物はシェークスピアの「ベニスの商人」、「袈裟と盛遠」、「三国無双」、「元禄おどり」などで私は「ベニスの商人」のバッサニオなどを勤めました。この場合の革新興行とは、茶屋制度を廃止することです。そのころどの芝居でも“芝居茶屋”があり、ご贔屓連はこの芝居茶屋を通して出方と呼ばれる男衆や、女中に案内されて客席へ入り、ちょうど現在の相撲茶屋のもっと派手な仕組みになっていました。茶屋を利用するとお客は高い飲食代とお茶代、心付け、その他の雑費を芝居の入場料ぐらい余計に払わなければならないのです。左団次さんはかねがねお客にそういう迷惑はかけたくないと思っていたらしく、外国の興行制度を見聞してから一層痛感してこの興行から敢然、お茶屋制度を廃止したわけです。
 しかし、この廃止は時期尚早となり失敗となりましたが、明治44年(1911)3月には、丸の内に茶屋制度を廃止した最新式の劇場である帝国劇場が開場するに及んで、各劇場もこれにならい、今日の切符前売り制度になったのですから、破れたりといえ、左団次さんの革新興行は演劇史上、忘れることはできません。

3.歌舞伎に西洋式演技の採り入れ(左団次の指導)
(1)デルサルト式表情術:仏国の歌手デルサルトが考案したもので、セリフを言わず、手ぶりや身振りで言葉や態度を表現する方法で、いわば最近流行のパントマイムです。発声法も今までの歌舞伎と違ってのみこむのに骨が折れました。
(2)「ダルクローズ式歩き方」:タイツやズボンをはいていますから歩き方も根本的に違います。これは西洋舞踊の基本体操で、間接運動から始めるのです。腕なら肩の付け根から始めて、二の腕を動かし、それから手首、指を「1,2、1,2」とやるのです。足ならば腰から始めるのです。なにぶん歌舞伎と全然性質が違うので、一通りやったあとは便所へ行ってもしゃがめないほど身体の節々が痛んだものです。
(3)セリフ:これは現代語である上に、歌舞伎の10倍ほどもあるのに面食らいました。15分ほど喋りまくる長いセリフもあるので、これを暗記するのが大変で、私など神経衰弱になったほどです。

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