川村隆 かわむら たかし

電機

掲載時肩書日立製作所相談役
掲載期間2015/05/01〜2015/05/31
出身地北海道
生年月日1939/12/19
掲載回数30 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他札幌 西高
入社日立製作所
配偶者お茶水生・同年齢(医師娘)
主な仕事入社1年半後に海外出張、原発国産一号、6年間3子会社会長、子会社の本社吸収・売却、三菱重工と統合、部門トップの社外説明義務、
恩師・恩人庄山悦彦(3上)、
人脈薬師寺薫、安川第五郎、綿森力、中西宏明、三好崇司、八丁地隆、佃和夫、東原敏昭
備考父:北大教授
論評

日立製作所出身の「私の履歴書」執筆者は、安川第五郎倉田主税駒井健一郎に次いで4人目である。氏の業績として印象深いのは、6年間の子会社会長を経験し、親会社のトップに着くとき、経営の意思決定を速めるため、会長と社長を兼任させてもらったことだ。そして自前経営陣容で100日プランを策定し、完全子会社化5社、赤字事業の売却、事業転換などのリストラ断行、そして三菱重工と共同出資による火力発電の統合など、次々とサプライズ経営を実行したことだった。

1.日立の創業時
先輩の倉田主税氏は入社時を次のように書いている。
「明治45年4月、久原鉱業所日立製作所に入社した。日立の創業の最初は、久原鉱業所日立鉱山の機械修理工場(41年発足)であったが、創業者の小平浪平氏が久原鉱業所の総帥久原房之助氏を説得して、電気機械製作所として鉱山から独立させた」。
これを、川村氏は日立製作所について述べ、「創業者は東京帝国大学卒の若いエンジニア、36歳の小平浪平という人物だ。当時、今の日立市近郊に銅鉱山があり、久原鉱山(現JXホールディングス)が採掘していたが、使われていた機械類は輸入品ばかりだった。それを国産に切替えようとして小平が発案し、オーナーの久原房之助を説得。最初は日立鉱山の一部門として出発し、10年後に今でいうスピンオフの形で日立製作所として独立した。第1号製品は5馬力モーター。当時の仕事場を日立事務所の一角に「創業小屋」として復元してあるが、米ヒューレット・パッカードの出発点だったシリコンバレーのガレージにも似て、非常に粗末なつくりで小平の苦労がしのばれる」。

2.原子炉国産第1号に挑戦
思い出深い仕事が中国電力の島根原子力発電所1号機だ。当時中国電力の建設本部に技術陣を率いる薬師寺薫さんという名物次長(後に同社副社長)がいて、彼の指揮のもとで「国産第1号の原子炉をめざそう」と両社が力を合わせて取り組んだ。原発は何と言っても米国企業が圧倒的にリードしており、日立は沸騰水型と呼ばれる原子炉を米ゼネラル・エレクトリック(GE)社から技術導入していた。島根1号機も土台にあるのはGEの技術だが、中国電力の要望を受けて、中央操作室などに独自の技術を盛り込んだ。操作を機会任せにせず、人の手でより細やかなに制御する仕組みを導入したのだ。
 電力技術者の間には「インチをセンチに変える」という言葉がある。米企業の設計図面に忠実に、ただ単位をセンチに換算して、コピー製品をつくることだ。日立の原発事業はそれまで「インチを・・」の段階にとどまっていたが、そこから一歩踏み出したのがこの島根1号機だった。同機は1974年3月に営業運転を開始し、約40年の勤めを終えて、今年(2015)3月に廃炉が決まった。長い間、ご苦労様と感謝している。

3.火力発電を三菱重工と共同出資で
2010年4月に会長職に専念することになった。会長と社長をの兼務は、緊急事態では威力を発揮したが、業績が回復してくると、例えば国内と海外の案件を同時に進めることも多くなり、会長と社長で業務を分担しないと機会損失が生じると考えたからだ。社長には中西宏明副社長が昇格。赤字の続いた米国のハードディスク駆動装置事業を立て直した剛腕の持ち主で、その後は彼と二人三脚で会社の指揮を執った。
これを機に「事業の集中と選択」の方針にも弾みがついた。中でも最大のモノが三菱重工業との火力発電設備事業の統合だ。これについてはさまざまな世間の関心を集めたが、重電の技術者として30年のキャリアを積み重ねた私にとっても、あるいは日立製作所のという企業にとっても、歴史を画する転換点だった。
 事の発端は私と三菱重工会長だった佃和夫さんとの会談だ。二人でいろいろ語り合う中で、火力ビジネスの先行きについて認識が一致した。両社は戦後営々と技術や事業ノウハウを磨いてきたが、世界トップの米ゼネラル・エレクトリック(GE)などとの差を埋めきれない。さらに後ろを振り返ると、母国市場の電力需要の急拡大を背景に中国勢も力を付け始めた。
 東日本大震災による原発事故や電力自由化の加速で、発電設備の買い手である電力各社の経営にも変化が出てきた。日立や三菱重工の重電事業が本当に世界の列強と互角に戦えるか、容易ならざる状況であった。そこで三菱重工が65%、日立が35%出資する共同出資会社を設立し、両社の火力事業を統合することにした。「三菱重工が運転席で日立は助手席。これでいいのか」。そんな議論が電力システム社や日立事業所だけでなく、多くの関係者から沸き起こったが、粘り強く説明し、最後は納得してもらった。

4.系列会社トップに外国でもIRの説明要求
日立製作所は売上高10兆円近い巨大事業だが、巨大さゆえの弱さや脆さも併せもっている。日立には売上高1兆円規模の社内カンパニーや子会社もあるが、そのトップは上場会社のように資金調達に苦しむことも無ければ、業績や成長性に対して外部からの厳しい目でチエックされることもないので、発想がどうしても内向きになる。
 こうした悪弊を是正するにはどうすればいいか。そんな発想から2010年に始めたのが「Hitachi IR Day」だ。オール日立の業績を事業単位で早期に向上させるのに、情報通信システム、鉄道システム、インフラシステムなどカンパニーのトップに機関投資家や証券アナリスト、メディアに事業の見通しや成長戦略、利益目標などを自分の言葉で説明させることだった。
これは、氏が2009年に再建に必要な3000億円増資のため、外国でIRの説明をした際、専門家から辛辣な質問を受け、責任を持った応答が必要と痛感したからだった。

私(吉田)もアナリスト説明会や東証の決算発表では専門家から厳しい質問攻めにあった経験があるだけに、この方法を採り入れて各事業部門のトップに自覚と責任を持たせるシステムを採り入れた英断は素晴らしいと感じた。

川村 隆(かわむら たかし、1939年12月19日 - )は、日本の実業家。元東京電力ホールディングス取締役会長[1]。元みずほフィナンシャルグループ社外取締役[2]。元日立製作所取締役・代表執行役会長兼執行役社長、同相談役[3]。元日本経済団体連合会(経団連)副会長[3]

北海道函館市出身[4][5][6][7]

父親は英文学者で元北海道大学教授の川村米一[8]

  1. ^ 東京電力ホールディングス株式会社 第93期有価証券報告書
  2. ^ みずほFG「取締役の略歴」
  3. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月1日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆(1)」
  4. ^ 北海道新聞、2016年8月2日「<私のなかの歴史>日立製作所前会長 川村隆さん*2*復帰そして巨艦再生」
  5. ^ 北海道新聞、2013年12月30日「経団連人事大詰め*次期会長 川村氏(日立会長、函館出身)も浮上*就任なら道産子初*本人は勇退意向?」
  6. ^ 北海道新聞、2014年1月10日「経団連次期会長に榊原氏*本命・川村氏(函館出身)が固辞*慣例破りOB起用*政権との関係修復期待」
  7. ^ 北海道新聞、2017年3月18日「東電次期会長 川村氏に打診 - 日立前会長、函館出身」
  8. ^ 日本経済新聞、2015年5月2日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆(2)」
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