川勝伝 かわかつ でん

交通(陸海・海運)

掲載時肩書南海電気鉄道社長
掲載期間1977/11/10〜1977/12/06
出身地京都府丹波
生年月日1901/07/12
掲載回数27 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
立命館大学
学歴その他京都商業、同志社中退
入社吉見紡織
配偶者父紹介娘
主な仕事電通、新聞界同盟、紡織連合会、寺田合名会社、日中医薬協議会、南海電鉄、南海ホークスオーナー
恩師・恩人能島進
人脈吉田秀雄・日比野恒次(電通同期)、庄司乙吉、寺田甚吉、北村徳太郎、宮崎竜介、末川博
備考学生運動家
論評

1901年(明治34年)7月12日 – 1988年(昭和63年)4月23日)は京都府生まれ。経済人・経営者。元・南海電気鉄道会長。南海中興の祖と呼ばれる。南海ホークスオーナー、南海建設(現・南海辰村建設)、南海不動産各会長などの南海グループ企業の他、日本民営鉄道協会会長、毎日放送監査役、桃山学院理事長など多くの要職を歴任。また、古くから中国にも関心を抱き、1952年(昭和27年)に日中貿易促進会議結成に中心的役割を果たした。

1.京都学連事件
大正14年(1925)、私はこの年から新大学制度で発足した立命館大学経済学部に入学した。このころ学生運動ががぜん活発に動き始めた。7月16日、学生社会科学連合会の第2回大会が開かれた。この年の1年間は、何といっても、わが国の学生社会科学運動にとって白熱化した時代であった。
 ある日、私は中川小十郎総長の私邸に、四宮恭二、山下英夫両教授とともに呼び出された。私が経済学研究会と社研の代表、両教授はその理論指導者であるということで、かなり手厳しい注意を受けたのである。
 大正15年1月15日から、延々4か月にわたって、京都を中心に全国の社会科学研究会の学生、社会科学運動に関係を持つ学者、思想家、組合運動家ら多数が検挙された。拘引された学生とは別に、京大教授河上肇、同志社教授河野密、同講師山本宣治、関西学院の河上丈太郎、松沢兼人の教授も家宅捜索を受けるという大掛かりなものであった。これがいわゆる「京都学連事件」である。

2.漢方薬の発展に貢献
昭和36年(1961)、“薬石効あり、再認識の生薬”と題する新聞記事が大きく掲載され、37年9月、私学会館で一般を対象に「漢方学術大講演会」を日中医薬協議会が開催した。しかし、何といっても私の漢方観に決定的な影響を与えたのは、私が実行委員長で主催した40年2月の「現代の漢方薬大阪展」だった。
 この催しは、中国政府当局から会に寄贈された、ほんものの生薬数百点を一般に公開し、正しい漢方の在り方と未来像を示した画期的な催しだった。薬ビンを持った人、家人に付き添われた病人もあり、入場者は文字通り殺到した。この首脳メンバーの朝比奈博博士は世界に誇る日本薬学会の父で、文化勲章受章者。「正倉院薬物」調査でも有名で、90歳を過ぎても研究室へ通った生薬学会の第一人者であった。北村徳太郎氏は親和銀行会長。大蔵大臣、運輸大臣を歴任された政界の巨頭でもあった。そして宮崎竜介氏は、中国革命の父、孫文。その盟友滔天の長男である。これらの人たちの協力で漢方薬の認識を一段と高めることができた。

3.南海ホークスのオーナーに
私は昭和22年(1947)から南海電鉄の非常勤役員を務め、昭和43年〈1968〉4月22日に社長に就任し、そして同年、南海ホークスのオーナーにも就任した。その年の秋、南海ホークス一筋に情熱を燃やして続けてきた鶴岡一人監督から、監督辞任の申し出があった。私は驚いた。名将鶴岡監督を失うことは、南海ホークスにとっては大変なことである。鶴岡即ホークスという、永年のイメージが崩れ去ることにもなる。私は鶴岡君と再三懇談を兼ねて留任を要請した。しかし鶴岡君は“人間の出処進退をあやまりたくない。引き際が大切だと思うので、まげてご了承を得たい”と強い決意を繰り返すので、辞任を認めざるを得なかった。
 翌44年は飯田徳治君にやってもらったが、開幕直前になってエース皆川投手の右手中指の骨折というアクシデントがあって最下位に転落。45年から8年間野村克也監督、52年10月から広瀬淑功監督となった。両リーグ12球団が、共存して人気を盛り上げ、繁栄できる方策はないものか、とオーナー就任以来、真剣に考え続けてきたのである。

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