掲載時肩書 | 協栄生命保険会長 |
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掲載期間 | 1979/06/25〜1979/07/23 |
出身地 | 東京都日本橋 |
生年月日 | 1908/02/05 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 四高 |
入社 | 生命保険 会社協会 |
配偶者 | 姉・紹介娘 |
主な仕事 | 協栄生命再保険㈱、育英制度(大平正芳)、生命保険中央会、国民年金制度、東南アジア生命保険振興センター |
恩師・恩人 | 林鶴一教授、玉木為三郎、三木行治 |
人脈 | 宇佐美格(開成友)藤川博、矢野一郎、真栄田世勲、亀徳正之、川崎祐宣、国崎裕 |
備考 | アクチュアリー (数理専門官) |
明治41(1908)年2月5日~平成10(1998)年10月3日は東京生まれ。生命保険協会に入り、昭和10年協栄生命に転じ常務。生命保険中央会理事を経て、22年協栄生命保険専務、23年社長、46年会長、55年取締役名誉会長、平成4年名誉会長。アクチュアリー。
1.アクチュアリー(数理専門官)の役目
保険の原則が、「大数の法則」と「事故発生の確立」による点は、生命保険も損害保険も同じだが、損害保険が1年ごとに新契約を更新するのに対し、生命保険では10年から30年以上の長期の契約が多い。そしてこの期間中の保険料は変わらないということが原則である。従って保険料は、その間の死亡率と資金の運用利回りを組み合わせて計算される。この同一保険料という原則を保つためには、期間中の前半では、受け取った保険料中に余裕を生じるので、これに金利を付けて積み立てておく。後半は毎年の実際支払いが保険料を上回る不足分に充てるための積立金を計算して、加入者の財産に属する分と当年度の利益を計算し、この利益のほとんど全部(98%以上)をまた加入者に配当として戻す計算をする。こうした計算のすべてが、アクチュアリーの第一の役目となる。この他、死亡率の調査、経営の合理化などもある。
2.育英制度を起案する
昭和17年〈1942〉の11月頃、衆議院の三宅正一代議士が、永井柳太郎氏を会長とする国民教育振興議員連盟が大規模な育英制度を計画しているので、協力して欲しいとのことだった。若輩の私に対する熱情に打たれて私も時間を割いて研究し、一プランを作成した。この案は、保険を離れて、国が何か別個の機関に低利で資金を貸し付け、その機関が貸費生に育英資金の貸し付けを行い、学校を卒業後、10年ないし20年で返済していく。返済のやり方については保険制度でやる。即ち死亡率や多少の返還不能を考慮に入れるという考えである。
昭和18年1月23日、議員会館で国民教育議員連盟の代議士30人ほどの前で説明した。その後、永井会長と文部省の交渉、私は文部省の劒木亨弘管理課長や大蔵省主計局の大平正芳主査を訪れて、この案の説明をした。そうして現在の育英制度が成立したわけである。
3.海軍から弾道計算を頼まれる
昭和18年〈1943〉の7月、仙台で数学大会が開催され、私も久し振りに母校の東北大学を訪れた。大会の終了後、追浜の海軍技術廠の各部門を見学し終わって、お茶の席でみんなが話をしていたところ、私が呼ばれて「川井さんにこれをやって欲しい」とのことで、簡単な式が渡された。初めは何の式か分からなかったが、他の教授に聞くと、爆弾を飛行機から投下した際の弾道を計算する微分方程式であるという。
だが、私は幾何学の方は大学でかじったが微分方程式論の講義は聞いただけであり、ましてや実際の計算などを見たこともなかった。東京へ戻ってから問題の大変さに気がついたが、もう間に合わない。
そこで会社の若手理学士に何でも応援するからやってくれるようにとその計算の仕事を渡したが、10月過ぎに「自分にはできないので退社する」と申し入れがあり、そのまま出社しないのである。期限は12月末。今更断るわけにゆかないし、頼るのは結局自分しかいない。意を決して徹夜で微分方程式の数値計算の本を勉強し、方針を立てて計算にかかった。
完成したのが12月30日であった。大晦日に追浜に出かけ書類を手渡してやれやれと思っていると、その時さらに、ロケット爆弾の弾道計算を頼まれてしまった。計算式は複雑だが、前の経験があるので引受けたが、この方は約1年かかった。