川上源一 かわかみ げんいち

その他製造

掲載時肩書日本楽器製造会長
掲載期間1978/04/01〜1978/04/29
出身地静岡県
生年月日1912/01/30
掲載回数29 回
執筆時年齢66 歳
最終学歴
商業高校
学歴その他甲南高
入社日産化学 大日本肥料
配偶者受付嬢・一目ぼれ
主な仕事日本楽器入社、工場長、プロペラ、ピアノ、発動機、 エレクトーン、ボート,洋弓、鳥羽国際ホテル
恩師・恩人古川政司
人脈塩野孝太郎、竹中錬一、水野健次郎(甲南)河島博(奨学生)、本田宗一郎、春日一幸、愛知揆一
備考父:日本楽器社長、貴族院議員
論評

1912年1月30日 – 2002年5月25日)は静岡県生まれ。日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長で、ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。本業の楽器製造に加えてオートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業し、社業の業績向上と多角化に大きな成果を挙げてヤマハ中興の祖ともいわれる。音楽や楽器演奏を身近にするためにヤマハ音楽教室を全国で展開して音楽教育の裾野を広げるほかに、ヤマハポピュラーソングコンテストや世界歌謡祭などを開催して1970年代から80年代のフォークソングとロックミュージックに功績している。

1.戦前の木製プロペラ
天竜工場では、軍事用飛行機・木製プロペラ用の強化木の生産が主だった。興味があったのは、ベークライトをしみ込ませた合板を金属の代わりに削り出して、プロペラを作る作業だった。住友系の会社が我が社をマネて、いろいろ研究していたが、実際に木製プロペラを付けて飛ばしたのは日本楽器だけだった。
 あるとき、海軍の監督官が天竜工場に来て「品物が悪い。もっとまじめに作らんか」と、軍刀を振りかざして脅かした。私は「私どもは誠心誠意、生産に励んでいる。それほど悪いと言うなら、実際に現場で、どこが悪いか指摘しなさい」と反論した。ただ威張りたいだけの青年将校だから、ぐぅとつまり、謝ってくれた。また、私が用事で工場を留守にしたある日、陸軍の監督官が来て、「今後、休みは一切なし。必勝の鉢巻を巻け」と命令した。私は絶対反対だった。実際社員は殆ど休みを返上し、昼夜三交代で働いているが、「配給物質の受取り、家事、洗濯など、一週間に一日は休まなくてはいけない。また鉢巻は最後の突撃の時に巻けばよい。今から鉢巻をしていては、皆へたばってしまう。監督官が何を言っても、私は許さん」と主張した。

2.戦後の生きる道
1945年8月終戦の玉音放送は、天竜工場で製材、ベニヤの従業員5、6百人と一緒に聞いた。皆打ちひしがれて、涙を流した。しかし私は「日本は戦いに負けたが、これで死んでしまおうと決意した人は別として、死ぬことのできない人間はしっかり生きて働く以外にない。すぐ仕事に取り掛かろう」と従業員を励ました。
 とりあえず土地の上にバラックを建て、復旧することが先決である。わずか雨つゆをしのぐほどの家だったが、工場にある軍需用木材でこれを建てることを手始めとした。幸い、天竜工場の従業員は一人も辞めることなく、バラック建築に取り掛かった。浜松市役所と話し合い、ここを窓口として申し込みを受付ると、一戸千円の住宅は市民に喜ばれた。

3.ピアノの生産
戦後の本社は本来の楽器の仕事に戻ろうとしても、すぐには無理だった。従業員は殆どプロペラの仕事しか知らないし、第一、ハーモニカを作ろうにも、ピアノを作ろうにも資材がない。正確な人数は定かではないが、やむなくある程度の人員整理をした。そして鋳物製の粉ひき器とか、何でもやれる仕事から手を付けた。そうこうしているうちに、簡単なマーモニカ製作からオルガン、ピアノへとボツボツ作り始めた。

4.社長就任とオートバイ進出
昭和24年(1949)1月21日、父は貴族院議員で議会開会中に、脳卒中で倒れた。この1年8月後に私に父の後継社長してバトンタッチされた。多角化でミシンやオート三輪など、いろいろな提案が出された。オートバイに興味を持ち、ドイツの一級品D・K・Wを参考にして研究していると、昭和29年8月、わずか10か月足らずで125ccの試作車を完成、浜名工場で本格的な生産に入った。「YAMAHA125」が発売されたのは30年2月、“赤とんぼ“の愛称で人気を呼んだ。そして30年7月、オートバイ部門を分離、資本金三千万円でヤマハ発動機を設立、私が社長を兼務した。

川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長で、ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。

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