島野喜三 しまの よしぞう

輸送用機器・手段

掲載時肩書シマノ会長
掲載期間2005/07/01〜2005/07/31
出身地大阪府
生年月日1934/11/27
掲載回数30 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶応
入社東京日産 販売
配偶者自転車同業者娘
主な仕事島野工業、米国シマノ、3段変速、10変 速、釣具、山バイク、海外進出、ゴルフX
恩師父親
人脈石原裕次郎、米国27年間、チーム・ シマノ全米行脚、社内公用語に英語
備考兄弟3人4脚
追悼

氏は‘20年7月3日、85歳で亡くなった。この「履歴書」登場は’05年7月の70歳のときでした。
いま再読してみると父親・庄三郎氏の教育(指導)が素晴らしかった。
1.切腹劇事件
 小学生時代はわんぱくで兄弟げんかが絶えなかった。あるとき次兄(敬三)と喧嘩した日、家に戻ると母親から「風呂に入り、白い浴衣に着替えなさい」といわれる。言われるままに風呂に入り、着替えると座敷に連れていかれた。床の間に面して、二振りの短刀が置いてあって、その前に座らされた。座ると、親父さんが後ろに来て、「お前たちみたいに、毎日兄弟げんかする奴は家に要らない。生きている必要はない。二人で切腹せい。俺が介錯してやる」という。親父さんは、後ろで刀を抜いている。恐怖でいっぱいになった。
 敬三さんと声を交わす余裕はなんかない。短刀にも触れなかった。さわれば切られると思った。二人で懸命に謝ったのは確かだ。必死に誓って、やっと放免された。

2.父と死別前の1カ月間
 シマノに戻り経理課に配属されたが、そろばんは下手、記帳も間違う。課長さんには、「あんたが入って仕事が増えてかなわん」とグチを言われた。家で養生している親父さんの食を進めるため、夕食の相手をするのが、私の大事な役目だった。仕事を終えると、すぐに家に帰った。
 食事をしながら親父さんは、「今日、朝8時から夕方5時までに見聞きしたことを話してみい」と言う。「何や、そんなことしか見てないのか」と言われるのがほとんどだった。
 小言を言われないよう、仕事の合間や終わってから、階下の工場を見に行った。だれかれをつかまえ、製品や工程のことを聞く。日々、新しい知識が増え、若いから吸収もできる。これは楽しかった。親父さんは三男坊に教えられることは教えておこうと思ったのだろう。亡くなるまでの約一か月、こんな生活が続いた。

3.親父さんは口癖のように、「海の向こうには必ず行くんや。世界の島野になるんや」と言っていた。私たち兄弟3人は、こんな言葉を耳にしながら育った。「お前たちに、大したものは残してやれない。しかし、一生懸命仕事のできる場だけは残しておいてやる」。やはり、よく言われた言葉である。
 親父さんの好きな言葉は、「和して厳しく」だった。「仲良く」と同時に、切磋琢磨を怠らず、常に「自分に厳しく」と言った。私たち兄弟にもシマノという企業にも、この精神は伝わっていると思う。

4.思いやりの人でした
 妻は小さい時からピアノの勉強をしていた。井口基成さんなどに師事、芸大を卒業後、プロのピアニストを目指していた。しばらく付き合い、昭和61年5月、私たちは結婚した。彼女はピアノへの道を断念することになった。一人の人間の夢を犠牲にして、私は幸福を手にした。

しまの よしぞう
島野 喜三
生誕 (1934-11-27) 1934年11月27日
大阪府堺市
死没 (2020-07-03) 2020年7月3日(85歳没)
出身校慶應義塾大学経済学部
職業実業家
肩書きシマノ第4代社長
配偶者島野郁子

島野 喜三(しまの よしぞう、1934年(昭和9年)11月27日 - 2020年(令和2年)7月3日)は、日本実業家島野工業(現・シマノ)第4代・代表取締役社長、会長、最高顧問。公益財団法人日本自転車競技連盟理事。社団法人自転車協会理事長を経て名誉会長。2005年日本国際博覧会評議員。米国市場を攻略し、シマノをイタリアカンパニョーロドイツボッシュと並び称される世界的な自転車部品メーカーに育てた[1] 。また、マウンテンバイク用部品のパイオニアとして知られる[2]旭日中綬章受章。

  1. ^ 日本経済新聞社 (2020年7月6日). “次の100年へ電動化に力 シマノ、喜三氏の遺志継ぐ”. 日本経済新聞社. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61217180W0A700C2LKA000/ 2020年7月18日閲覧。 
  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「NIKKEI」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
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