島津忠承 しまず ちゅうしょう

行政・司法

掲載時肩書日本赤十字社社長
掲載期間1960/01/01〜1960/01/22
出身地東京都
生年月日1903/05/19
掲載回数21 回
執筆時年齢57 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他学習院
入社日赤
配偶者記載なし
主な仕事欧米視察、貴族院議員、国際会議開催事務、戦争抑留者対応、ジュネーブ本社と交渉、俘虜交換船、結核予防会
恩師徳川家達 16代将軍(日赤社長)
人脈徳川圀順副社長、学習院L教授、ドクターバラ、フォスター夫妻
備考祖父久光
論評

1903年(明治36年)5月19日 – 1990年(平成2年)8月26日)は東京生まれ。戦前の華族。公爵議員として貴族院議員を長年務める。また、日本赤十字社副社長を経て、1946年(昭和21年)から日本赤十字社社長を務め、当時国交断絶していたソビエト連邦、中華人民共和国に残留した日本人の救出に尽力した。また、1946年(昭和21年)には結核予防会の副会長から会長に昇任した。玉里島津家2代島津忠済の長男。島津氏はこの「履歴書」で赤十字に入社し、育ち、そして赤十字で生涯の幕を閉じる人生を語ってくれた。

1.赤十字の歴史
私が日本赤十字に入ったのは昭和5年(1930)5月、大学を出て胸を膨らませての出発だった。赤十字本体は、クリミア戦争時のナイチンゲール女史が、同胞の看護婦と共に負傷者の救護に従事した人間愛を始めとして、スイス人アンリー・デュナン氏が戦時の負傷者を救護する団体を組織する運動を欧州諸国に働きかけ、その共鳴を得て1863年ジュネーブに赤十字国際委員会を設立したのを起源とする。
 日本は1886年(明治19)、赤十字条約に加盟し、明治10年の役(西南戦争)の際に設立された救護団体「博愛社」を改称し、新しく日本赤十字社となった。時の社長は徳川家達、副社長は徳川圀順、阪本彰之の諸氏であり、社長、副社長は勅任で、創立以来つねに文人である。第二次大戦中、将軍や提督が市長になったり、大学総長になった時代でも、日赤の社長、副社長だけは軍人ではなかった。

2.赤十字国際会議
昭和8年(1933)10月20日午前10時から本社講堂で開かれ、特にNHKはその模様を全国に中継放送した。総裁閑院宮親王殿下ご臨席のもと、壇上に事務局席についたのは徳川社長、赤十字国際委員会副会長ファーブル大佐、赤十字社連盟理事長ジョン・バートン・ペイン判事、内閣総理大臣岡田啓介、宮内大臣湯浅會平、外務大臣広田弘毅、内務大臣後藤文夫、陸軍大臣林銑十郎、海軍大臣長谷川濱、文部大臣松田源治などの諸氏であった。
 この会議は世界56の政府および赤十字代表が参加し、社長は米国赤十字社長ジョン・バートン・ペイン判事、ドイツ赤十字ザクセン・コープルク・ゴータ大公などの6氏であった

3.捕虜の範囲?
昭和15年(1940)6月5日に私の恩人といえる徳川家達社長が亡くなった。25日に徳川圀順副社長は社長に、私は副社長に勅任された。当時の規定では本社社長、副社長は陸海軍大臣の奏請によるものだった。
 昭和16年(1941)12月8日第二次大戦が始まった。その翌日、米国赤十字から一通の電報を受け取った。もちろんジュネーブの赤十字国際委員会を経由してきたものであったが、内容は「1929年の俘虜(ふりょ)条約をいかに取り扱うか」ということを質問してきた電報であった。問題は俘虜以外の範囲は?の質問。
 戦時には、日本赤十字本社内に俘虜救恤(ふりょきゅうじゅつ)委員部を設置する規定があった。従来からの規定によれば、捕虜だけがその対象となっていたのであったが、宣戦布告と同時に攻撃が開始されたため多数の海外在留邦人がそのまま国外にとどまって、従ってそのほとんどが抑留者となり、また我が国にも多数の軍人でない敵国人が引き揚げる暇もなく残されていたので、軍人以外の一般人の救恤も含めて取り扱う規定に改め、直ちに監督官庁の陸海軍省にその認可を申請した。その翌1942年1月24日に規定改訂の認可があったので、本社内に俘虜救恤委員部が設置され、私はその委員長に任ぜられ、改訂した。

4.俘虜収容所訪問、残留者交換の役割
俘虜第一号はグアム島で俘虜となった米海軍の一隊でそこを視察、訪問した。また、この大戦で交戦国の双方に多数の同胞の残留者ができた。そこで昭和17年(1942)に至って関係国の間に、その交換(帰国)の話が始められた。日本赤十字も、この交換船については役割を果たすこととなり、私も多く関与した。

家族と共に(1949年)

島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年(明治36年)5月19日 - 1990年(平成2年)8月26日)は、戦前の華族玉里島津家2代島津忠済の長男。

勲等勲一等。華族時代の爵位公爵日本赤十字社名誉社長

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