岩村英郎 いわむら えいろう

鉄鋼

掲載時肩書川崎製鉄会長
掲載期間1988/05/01〜1988/05/31
出身地大阪府
生年月日1915/09/13
掲載回数30 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他東京高校
入社川崎造船
配偶者学友妹
主な仕事川崎重工業、川崎製鉄、千葉製鉄所、水島精錬所、ブラジル製鉄・合併
恩師・恩人三島徳七、西山弥太郎
人脈松方幸次郎(社長)渡辺省吾、三木行治(岡山県知事)、藤本一郎、石野信一、斎藤英四郎
備考卓球10段
論評

大正4年(1915)09月13日―平成3年(1991)5月7日)は大阪生まれ。実業家、川崎製鉄会長。
社内指示「良いと思うこと、正しいと思うことは最初からちゃんとやりなさい。他社がやったから、と言うのは、おかしいじゃないか」。

1.川崎造船所と川崎製鉄
私が昭和13年(1938)に川崎造船所に入社した時、神戸の工場は製鈑工場と呼ばれていた。当時、川崎造船所の製鉄部門は銑鉄を八幡鉄工所から購入し、製鋼と圧延を中心にしていた。
川崎造船所の中興の祖となるのが、明治29年(1896)から昭和3年(1928)まで33年間にわたって社長を務めた松方幸次郎氏である。氏の経営手腕で川崎造船所から、川崎重工業、川崎製鉄、川崎汽船、川鉄商事などが分離・独立し、それぞれが企業発展したのだった。

2.川崎重工業から川崎製鉄へ
昭和25年(1950)8月7日、川崎重工業から製鉄部門が分離・独立し、川崎製鉄が発足、初代社長に西山弥太郎氏が就任した。この年の4月には、戦前に大合同した日本製鉄が解体して八幡製鉄と富士製鉄の二社が新発足し、いよいよ鉄鋼業界も自由競争の時代に入った。いつまでも八幡や富士に銑鉄の供給を依存していては制約が多すぎる。一日も早く高炉を建設し、銑鉄から製鋼、圧延まで揃えた鉄鋼一貫メーカーに脱皮することが急務になってきた。
 昭和25年11月、西山新社長は千葉製鉄所建設を決定し発表した。当時、わが国の高炉保有基数は37基だった。しかし稼働中のものは12基に過ぎず、大半は休止していた。それが26年には7基再稼働の予定があり、通産省や業界の一部から、これ以上高炉はいらないという設備二重投資論の批判が起きた。それも資本金5億円の会社が、160億円の投資をかけて新鉄工所をつくると言うのだから尚更だった。

3.恩師・西山弥太郎さんの人柄
「一本どうだ」、現場にやってきては、タバコのキャメルを差し出してくれる。質素な生活を続けていたが、大変なヘビースモーカーで、タバコだけは洋モクの上等なのを吸っていた。何しろ神出鬼没で、神戸の本社にいたかと思えば、製鉄所にひよっこり現れて、声をかけて回るといった具合。神戸、東京、千葉とどこへ行くにも秘書など付けずに、一人で歩いていた。西山天皇と異名をとっていただけに、巷間、カリスマ的な印象を持っている方が多いかもしれないが、身近に接してみると、そういうように感じたことはなかった。ただ、ほとばしるほどの情熱家であったことだけは間違いない。
 「おい、お前なぁ・・」、西山さんはいつもこういう語り口で諭し始める。それは叱るというよりも、「こんなことしとっていいのか」という悲しみ、嘆きであった。怒鳴られるより、もっともっと、胸に響くのである。何しろ、鉄のことしか頭の中にはなかった。戦後しばらくのころ、よくこんな話を聞かされた。「やがて、鉄は木材より安くなる。いや、安くして見せる。材木を作るには何十年もかかるけれど、鉄はいつでもできる。また、100mの材木はできないが、鉄なら、そんなもの簡単に出来る。今に、木造の家より、鉄の家の方が安くできるよ」。

4.水島製鉄所は連続鋳造方式で
昭和41年(1966)12月24日付で私は取締役に選任され、水島製鉄所の副工場長になった。水島時代は設備拡張の連続だった。第一高炉の火入れに続いて、44年1月には当時、世界一の規模を誇った第二高炉(公称日産能力6千トン)が完成した。さらに、この時期には川鉄で初めての連続鋳造設備が水島に導入された。連続鋳造でない在来方式は精錬した溶鋼の湯をインゴット(鋼塊)ケースに鋳込み、ある程度冷えてからケースを抜いて、インゴットを分塊工場に持って行く。分塊工場では灼熱炉にインゴットを入れて、加熱し分塊圧延機にかける。それで板やパイプを作る前段階のスラブ(鋼片)ができる流れだった。
 これに対して、連続鋳造は溶鋼の湯から一挙にスラブまで作ろうというもので、インゴットケースに入れたり、加熱したりする手間が不要になる。極めて歩留まりが良く、省エネ効果も大きく、生産性の向上にかなり力を発揮した鉄鋼技術である。

岩村 英郎(いわむら えいろう、1915年9月13日 - 1991年5月7日)は、日本の経営者川崎製鉄社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身[1]

  1. ^ 「現代物故者事典 1988-1990 p91」
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