山下勇 やました いさむ

交通(陸海・海運)

掲載時肩書JR東日本会長
掲載期間1987/05/01〜1987/05/31
出身地東京都
生年月日1911/02/15
掲載回数31 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他浦和
入社三井物産造船部
配偶者三井秘書課長娘
主な仕事三井造船、欧州研修、自動化船、50万トンタンカー、造船工業会長、国鉄会長、海洋開発
恩師・恩人向井忠晴
人脈畑和(浦和)、大来佐武郎(大学2年下)、江戸英雄、湯川秀樹、稲山嘉寛、真藤恒、土光敏夫、住田正一、水上達三
備考旗本御家人(父医者)、多趣味6つ
論評

明治44年(1911)2月15日―平成6年(1994)5月6日)東京生まれ。昭和後期-平成時代の経営者。昭和8年三井物産造船部(現三井造船)に入社。船舶エンジンの開発にとりくみ,のち50万トン級ドックの建造や船舶の自動化などを推進。45年社長,54-60年会長。同社を総合重工エンジニアリング企業にそだてた。62年東日本旅客鉄道(JR東日本)の初代会長。経団連副会長などもつとめた。

1.東大生の生活費
東大の大学2年(1931)になって、共済事業委員会の委員になった。この委員会は東大総長が委員長で、各学部から教授一人、学生二人ずつが出て、学生の福祉問題全般について取り扱っていた。学生の生活調査をやったことがある。そのときの調査結果では、東大生の1か月の生活費は下宿代などすべて入れて平均28円だったと記憶している。学校の先生や巡査の月給がだいたい35円くらい、大学出で一流企業に入ったり、公務員の上級職になる人が65円くらいだった。
 東大の授業料は私が入学した時で年額80円。その後120円になったが、調査時点では80円だったから、当時の東大生は毎月6、7円の授業料を払い、下宿代と本代などに20円ほどを使っていたことになる。

2.三井物産の海外派遣待遇
結婚して半年後の昭和13年(1938)7月、私は初めて外国に行くことになった。いよいよ出発の前に、三井物産常務で本店営業部長だった向井忠晴さんに呼びつけられた。「君は今度デンマークに行くが、行くにあたって大事なことを2点言っておく。一つは三井物産の社員は全ての行動が日本人の模範になるよう立派に、紳士的に振舞わってもらわなければならないということ。もう一つは、紳士的な行動ができるだけのお金は出してやるから、汽車、汽船などの乗り物は、一等に乗ること。ホテルも一流のホテルに泊まりなさい。お金が足りなくなったら、現地の支店に面倒を見させるから、心配しなくてよろしい」。
 そう言われて、日本郵船の世界一周航路の一等船客の切符と、365ポンドをもらった。当時の為替レートは1ポンド17円だったが、1日1ポンドで1年の出張予定ということである。まだ27歳の若僧に向かって、乗物、ホテルは全て一流を保障し、絶対に社名を辱めるような行動はするな、ということであった。

3.GHQの公職追放対象者
戦後、会社のトップが追放され、その穴埋めの形で順送りに私は部長になったのだが、その直後、当の私にも追放令が下されたのである。GHQによる公職追放は実に徹底したもので、対象者はA項戦争犯罪人、B項職業軍人、C項極端な国家主義団体などの幹部、D項大政翼賛会などの幹部、E項膨張政策に関与した金融機関の幹部、F項占領地の行政長官など、G項その他の軍国主義者など、と広範に亘っていた。このため23年5月までで追放指定者は20万人以上にのぼったのである。
 私の場合は戦争中、岡山・玉野の翼賛壮年師団長をしていたことが問題になり、G項該当者として追放された。適当な人材が次々と召集されてしまい、残った私がやむを得ず引き受けた役なのに、とぼやいても仕方のないことだった。

4.世界最初の自動化船
将来の船はどういう方向に進むか。昭和33年〈1958〉頃から運輸省でこんな議論が起こり、船舶の自動化がテーマの一つにのぼってきた。ディーゼル船、タービン船、艤装の3部門に分けて自動化を研究することになり、三井造船の加藤五一社長がディーゼル船部門の担当責任者になった。
 戦前からディーゼルエンジンを手掛けてきた私は具体的研究を任され、何度も委員会を開いたあげく、自動化された船を実際に建造することになった。35年(1960)に造り始め、36年8月に進水した三井船舶のディーゼル貨物船金華山丸がその成果であり、これが世界最初の本格的自動化船である。従来の船は船橋(ブリッジ)でテレグラフを動かし、下の機関室(エンジンルーム)でそれを受け、指令通りに船を動かす。従って船長や航海士は船橋にいるが、機関士はエンジンルームにこもった。その方式をやめ、ブリッジで全部操縦できるようにしようというのが自動化の狙いだった。
 エンジンルームは暑いし、エンジンの音はうるさいし、油の飛沫もあって、労働環境は劣悪である。そこでエンジンの横の中二階になっているところに制御室をつくり、防音、冷暖房設備を施す。室内に必要な計器、警報類をすべて収め、そこで操縦できるし、ブリッジからも遠隔操作できるシステムだった。
 金華山丸は自動化で在来船より10人少ない要員で動かすことができた。在来船の定員は52人くらいだったが、それが40人弱になり、その後の自動化機器の開発で今では16人になっている。

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