小泉淳作 こいずみ じゅんさく

芸術

掲載時肩書日本画家
掲載期間2011/08/01〜2011/08/31
出身地神奈川県
生年月日1924/10/26
掲載回数30 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他慶應予科
入社アルバイト
配偶者姉の紹介
主な仕事セザンヌ、デザイナー、陶芸、随筆、中国山水画、建長寺・建仁寺(龍)、東大寺襖絵40面、
恩師吉田小五郎、山本丘人, 中川一政
人脈安岡章太郎、小堀宗慶、平山郁夫夫妻(同期)、武谷三男、田近憲三、清水公照、石井好子、星忠伸、森本公誠、イサム・ノグチ
備考父・政治家、弟・小泉博
論評

1924年10月26日 – 2012年1月9日)は神奈川県鎌倉市生まれ。日本画家、陶芸家。政治家小泉策太郎の七男で、俳優小泉博は弟にあたる。山本丘人に師事し、1952年東京藝術大学日本画科を卒業。その後デザイナーとして活動し、陶芸家としても注目された。その間も日本画を画き続けたが、日本画家として注目を浴びたのは1970年代半ばである。最近の重要な作品としては、建仁寺および建長寺の天井画がある。

1.3人の師
生涯に3人の師に巡りあっている。東京美術学校日本画科の恩師、山本丘人先生、売れない画家時代に薫陶を受けた中川一政先生、そして慶応幼稚舎のクラス担任だった吉田小五郎先生である。
 中でも幼いころの師は格別な存在だ。吉田先生は私の暗い少年時代の光明だった。丸6年間、先生のお世話になったのは非常に幸せなことだった。私たちのクラス担当になったころ、先生はまだ20代。子供心にも私心のない、純粋な心根を持った方だと思った。低学年の頃、国語の授業でベートベンの「月光の曲」の話が出た。すると先生は蓄音機を持ち込みレコードを聴かせてくださった。野草もこよなく愛された。
 美術学校のとき、どういうわけか猩紅熱にかかった。感染症なので隔離病棟で暇を持て余していた。ある日、珍しく見舞客があった。吉田先生だった。先生は平気な顔で病室に入ってこられた。また、美校を出て売れる当てのない絵を描いていたころ、先生は私の殺風景なアトリエにぶらりと来られた。「君は芸術家なのだから本物を置きなさい」とおっしゃった。数日後、先生から室町時代の素晴らしい般若の面が届いた。

2.心に沁みた言葉
売れない画家はデザイナーとしては、嘱託やアルバイトで、自転車、お菓子のパッケージのデザインで採用率はピカ一だった。だが、製品を実際に売り出す際に担当者から、「商品はもっと大きく」とか「会社のロゴを目立つように」などの注文がでる。「美校を出た画家にごちゃごちゃ言うな」とカチンとくる。まだ1枚も絵が売れないのだから正確には画家ではないが、プライドが傷ついた。しかし、妥協するしかない。
 鬱憤が溜まり始めたころ、物理学者の武谷三男さんから、「人生は妥協の連続ですよ。人生は妥協しなければ生きていけません。でもね、一つだけ妥協しないものも持たなくちゃね」と言われた。この言葉は、心に沁み、腹にずしんと来た。そして勇気づけられた。デザインの仕事は大事な生活の糧だが、しょせんは副業。妥協したっていい。妥協してはいけないもの、それは本業の絵なのだと。

3.水墨画の殻を破る体験
中国の唐・宗画の素晴らしさに衝撃を受けて水墨画、とりわけ山水画を描きたいと心に決めて、私は試行錯誤を重ねていた。ずいぶん時間がかかったが、50代半ばごろになって、ようやく自分なりの山水画が姿を現し始めたような気がした。試行錯誤の原因は画法にあった。日本画は一般的に下地の段階から順々に色を塗り重ねていく。押したり引いたり、粘り強く描いていくやり方である。
 だが、水墨画は塗り直しができない。私には水墨画は無理かもしれないと迷い続けていたが、ある日、奥秩父の山を写生しているときに、天啓のように「できる」とひらめいた。そのひらめきは技術的なことではない。時がたつのも忘れて丹念に写生をしているうちに山々のバランスの美しさに打たれた。完璧な造形だった。山から形を教わったような気がした。自然が発する「気」に感応できた。そんな実感があった。
 水墨画に開眼したというつもりはない。それ以降も技法的なことで迷いが続き、実験や挑戦を重ねた。だが、ひとつの殻を破れたのは確かだった。

小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 - 2012年1月9日)は、日本日本画家、陶芸家。

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