小汀利得 おばま としえ

ジャーナリスト

掲載時肩書評論家
掲載期間1971/01/30〜1971/02/28
出身地島根県
生年月日1889/12/13
掲載回数30 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他正則英語
入社増田貿易
配偶者友人妹
主な仕事16歳上京、衆院議長秘書、中外商業、貴族院議員、公安委員長、金輸出解禁反対
恩師安部磯雄教授
人脈渋沢秀雄、原安三郎、島村抱月、坪内逍遥、武藤山治、緒方竹虎、石橋湛山、高橋亀吉、細川隆元、
備考本家:鹿島神社の神官
論評

1889年12月3日 – 1972年5月28日)は島根県生まれ。ジャーナリスト、時事評論家。第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で[1]、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。「履歴書」でも「ばかやろう」を連発。

1.島村抱月と坪内逍遥の両先生(早稲田時代)
島村先生で思い出すのは、先生が「見よ東海の空明けて・・・」という愛国行進曲の作詞をしたということだ。あの歌詞は昭和13年(1938)、情報局の公募により、なんとかいう若い男が作ったことになっている(瀬戸口藤吉作曲)が、実は島村先生がベルリンに留学中、日ロ戦に勝った夜、日本人会の席上で祝賀の歌としてあの詩を書いたということが先生の著書にある。とにかくああいう人が早世したことは早稲田のみならず日本の損失であった。
 島村先生は一部の学生に人気があったが、坪内逍遥先生は学生全体にすごい人気があった。特に歌舞伎の講義は口三味線で浄瑠璃が入り、女の声、男の声と登場人物そのままの声を出すので、名優の芝居を見ているより面白く、聞くべき講義をサボって先生のを聞きに行くものだから講堂はいつも満員だった。

2.早稲田議会(模擬国会)
当時の早稲田名物であり、いわゆるお祭りであった。現在でいえば文化祭というところだが、文化祭よりずっとまじめであり、内容も充実していた。
 ぼくの大学2年の早稲田議会内閣の顔ぶれは次のようなものであった。総理大臣(高田早苗)、内務大臣(副島義一)、外務大臣(永井柳太郎)、大蔵大臣(田中穂積)、陸軍大臣(服部文四郎)、海軍大臣(安部磯雄)、司法大臣(坂本三郎)。議長は塩沢昌貞、独立党は大隈重信、天野為之、犬飼毅、後藤新平といった大物が揃い、ぼくは急進党約100名のうち第3部長を務めていた。
 塩沢議長や高田総理が壇上から何かを発言すると、22,3歳前後の生意気ざかりだからわれわれは急進党席からやおら立ちあがって、「総理大臣ならびに議長の発言は甚だ不穏当だと思われるので撤回することを望みます」とか何とか大きなことを言って反論したものである。
 現在のゲバ学生の連中は学内を暴力で破壊し、なんら関係のない社会や一般民衆に迷惑をかけているが、少なくとも僕らの模擬国会は建設的であったと自負している。

3.コラム「大機小機」担当
昭和12年(1937)、中外商業新報社・編集局長のまま取締役に就任した。このころ一番不愉快だったのは政府の言論統制である。当時は金解禁同様に悪名高い治安維持法その他の法令によって新聞、雑誌などは内務省でいちいち検閲していたものだ。
 ぼくはそういう時代でも「大機小機」や社説で攻撃すべきことは勇敢に攻撃した。その時々の政府や軍部の施策で気にくわないことがあると「ヘッポコ軍人」とか「ヘナチョコ官僚」とさんざんにコキおろしたものだ。

4.不良記者の大刷新
ぼくは編集局長のころ田中社長の了解を得て人事の大刷新を行った。何しろ新聞記者といえば、人と会うとき、鳥打ち帽子をかぶり、レーンコートを着たまま、机の上へ足をのせるような無礼きわまるヤツさえいた時代で、そういう能なし記者を片っ端から片づけた。ある記者のごときは芸者を女房にして待合を経営させていたので、自分は左うちわで新聞記者をしていたが、記事は一向に書かない。そのほか、会社、銀行を食い物にしている不良記者、出勤常ならざるぐうたら記者など十人余り、つぎつぎに引導を渡した。
 もっとも辞めるものには適当に次の職場を探してやったり、中には配置転換などの配慮はした。

小汀利得

小汀 利得(おばま としえ、1889年12月3日 - 1972年5月28日)は、日本ジャーナリスト、時事評論家。第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で[1]、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。なお名前はしばしば音読みで「りとく」と呼ばれた。

  1. ^ 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月9日閲覧。
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