小平邦彦 こひら くにひこ

学術

掲載時肩書東京大学名誉教授
掲載期間1986/02/01〜1986/03/03
出身地東京都
生年月日1915/03/16
掲載回数30 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高 東京大学大学院
入社文理大助教授
配偶者ピアノ伴奏した娘
主な仕事数学以外は劣等感、ピアノ、東京文理大、プリンストン、フィールズ賞、ホプキンス大、スタンフォード、東大、教育への提言
恩師・恩人ワイル教授
人脈外山滋、安倍亮(能成の長男)、朝永振一郎、湯川秀樹、アインシュタイン博士、ベイユ教授、スペンサー教授、谷村裕
備考ピアノ名手、父・農林次官
論評

1915年3月16日 – 1997年7月26日)は東京都出身。数学者。日本人初のフィールズ賞およびウルフ賞受賞者。フィールズ賞を1954年に日本人として初めて受賞(調和積分論、二次元代数多様体(代数曲面)の分類などによる)。1948年、ヘルマン・ワイルによりプリンストン高等研究所に招聘された。変形の理論(英語版)(モジュライ空間の局所理論)でも有名。小平は代数幾何に(楕円型微分方程式論など)複素解析的手法を持ち込み、これらの業績を次々と上げていった。これはアンドレ・ヴェイユなどの目指した徹底的な代数化の方向とは趣を異にするものであり、後年のマイケル・アティヤ、サイモン・ドナルドソンらによるヤン=ミルズ理論のさきがけとも見なせる。帰国後東京大学、学習院大学で教鞭をとった。小平次元、小平消滅定理、小平・スペンサー理論等に名を残している。

1.数学の勉強
私は小学校を卒業すると府立五中(現小石川高)に入学した。当時の中学校の数学は1年が算術、2年から4年までは代数と平面幾何であった。5年では立体幾何をならった。中学校の5年は年齢でいえば現在の高校2年に相当するが、微分積分も確率統計もなかった。
 当時の中学校の平面幾何は伝統的なユークリッド平面幾何で、我々中学生は平面幾何を通して論理を学んだ。ユークリッド平面幾何は論理を教えるための最適な教材であろう。近年数学の初等・中等教育からユークリッド平面幾何はほとんど追放されてしまったが、その結果、論理を教える場が失われてしまったのは残念である。台数も幾何もそれぞれ1冊の教科書を2年から4年まで通して使った。

2.プリンストン大の恩師・ワイル教授
この大学の高級研究所の所員には全然義務がなく、自分の好きな研究をしておればよい、という話を聞いて、食糧難の日本から食糧豊富な米国のプリンストンの高級研究所に行けたらうれしいと思っていた。すると、昭和24年(1949)9月から1年間来ないかとの、この研究所のワイル教授から招待状が届いた。
 ワイル教授は今世紀最後のスケールの大きい大数学者であろう。研究分野は数学だけではなく物理学から哲学にまで及び、アインシュタイン博士が一般相対理論を発表すれば、たちまち「空間・時間・物質」を著して統一場理論を試み、量子力学が出現すれば「群論と量子力学」を書く、というふうで論文」160余編、著書16冊にも及ぶ膨大な仕事を残した。

3.アインシュタイン博士の授業
ワイル教授のゼミで、アインシュタイン博士は上着なしで襟の詰まったジャケットを着て現れ、何かボソボソ言いながら黒板に数式を書き始めた。初めよくわからなかったが、よく聞くと式の文字abc・・をアー、ベー、ツエー・・・とドイツ式に読んでいるのであった。講義の内容は一般相対論の計量テンソルとして非対称なものを許せば電磁場を含めた統一場の理論ができる、というものであった。当時こういう業分幾何学に基づく統一場理論は時代遅れとされ、若い物理学者は見向きもしなかったが、最近また盛んに研究されている。

4.フィールズ賞授賞式(数学のノーベル賞)
1954年9月、国際数学者会議はオランダのアムステルダムで開催され、同賞の授賞式は開会式の行事の一つであった。議長のスカウチン教授の開会の辞の後、ファニア・シャピロ夫人のピアノ演奏があった。曲目はショパンの即興曲、ノクターンとスケルッツォ。次が授賞式で、今回のフィールズ賞選考委員長のワイル教授からセール博士と私がそれぞれ金メダルと千五百ドルの賞金をいただいた。続いてワイル博士の一時間余りにわたって私たち受賞者の業績を詳しく説明された。そのあともう一度ピアノ演奏があって、国際数学者連合のセクレタリーのボンピア二の短いスピーチがあり、それで開会式はおしまいであった。

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