小堀宗慶 こぼり そうけい

芸術

掲載時肩書遠州茶道宗家
掲載期間2006/08/01〜2006/08/31
出身地東京都
生年月日1923/01/14
掲載回数30 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他
入社従軍
配偶者弟子娘見合
主な仕事武家茶道の維持発展、シベリア抑留4年、飢餓(芋虫・蛇・松)、武家茶道の維持発展、シベリヤ墓参30年ぶり
恩師石黒子爵
人脈鹿島守之助、三井高大、福富以清老師、小堀実道老師、高田好胤、
備考流祖・ 小堀遠州
論評

大正12年(1923)1月14日遠州茶道宗家11世小堀宗明の長男として東京に生まれる。 東京美術学校(現東京芸術大学)在学中、学徒出陣にて満州に従軍。 終戦後シベリアで4年間の抑留生活を送る。昭和24年(1949)9月に復員し、翌25年音羽護国寺に於いて、遠州公嫡子大膳宗慶公の号を襲名し、以来茶道界発展に尽力。同37年(1962)に12世を継承。「国民皆茶」をモットーに、茶道界のリーダーとして、茶道本源に関しての研究はもちろんのこと、建築・造園の指導並びに芸術・工芸の分野においても幅広く活動している。 特に名物裂の研究、また茶花に関しては当代随一といわれ、また藤原定家の流れをくんだ「定家書風」の第一人者としても有名。

1.小堀家(武士茶道)と石黒子爵(枢密院顧問)
千利休以来の茶道の流れの一方は、堺の豪商連の町人茶道として町衆の間に伝えられてきた。それとは趣を異にして、古田織部から流祖、小堀遠州によりその流れの基礎が確立された小堀家の茶道は、武士茶道であった。樋口清之先生は「町人茶道は社交として人間関係をスムーズにするのが主流、武家茶道は内的人間監省、いわゆる自分の心を厳格に律する、寧ろ人間完成の道として行われてきた」と説かれた。
 私の祖父、宗有は11歳の時に明治維新の激変に直面した。徳川幕府の庇護のもと高い格式を保ってきた遠州茶道だったが、一般への普及、浸透が果たせず一時、衰退の危機に陥った。
 そんなありさまを見た石黒忠悳(ただのり)子爵は、祖父の死後、十一世を継いでいた父に次のような忠告をしてくださったという。
「小堀遠州という大変優れた芸術家の末裔として、何かほかになすべきことがあるのではないですか?遠州の確立した茶道は、利休のものとは一線を画している。将軍家も大名家も習った素晴らしい由緒あるものを衰退させてはなりません。もっと一般に遠州流茶道を公開し、世に広めることこそが、遠州の血をひく者の務めではありませんか」。こう言って子爵は、所有されていた青山南町の地所まで提供してくださった。

2.凍傷予防訓練
9月といってもシベリアの自然は厳しい。冬のさ中になると気温は零下30度から40度に下がった。このとき凍傷予防訓練を受けた。水に濡らした素手のまま、零下30度前後の戸外を手を挙げて駆け足する。指先がみるみるうちに白くローソクのように変色する。放置しておけばやがて水が溜まって腐り始め凍傷になる。そこで、白くなったらすぐ雪でゴシゴシとこするのである。すると、ポ~ッと血の気が差してきて凍傷にはかからない。実に簡単で効果的だった。ただ、指に赤みが差して血が通い始める時の痛さは凄かった。
 作業中、仲間の顔を見て、もし、鼻の先や耳たぶなどが白くなりかけていたら「おい、鼻ッ」「おい、耳ッ」などと怒鳴り合いながら雪を掴んでお互いにこすり合った。

3.シベリア墓参
帰還後30年目の昭和54年(1979)7月、薬師寺の高田弘胤管長を団長とする「シベリア墓参団」の一員として、私は妻と一緒にハバロフスクに飛んだ。一行は法要をしてくださる僧侶6人のほか、数人のシベリア抑留経験者、そして最愛の夫、兄弟をこの地で失われた遺族など48人の方々と一緒だった。この地に身を置くと、辛酸の鬱憤を誰に晴らすこともなく果てた戦友のことが思われ、はらわたを絞るような悔しさがこみ上げてきた。私には見えるのだ。井桁に組んだ屍を包む炎が。永久に溶けることのない氷の上を、ボロをまとった痩せた男たちが隊列を組んで歩く姿が。歩きながらバタバタと倒れ、苦悶と無念の表情でこと切れる兵士たちが。我々が敷設した線路の脇には枕木と同じ数の死体が並んでいるのだ。
 ついにこの法要でこらえることができなくなった。一人私は立ち上がり、なき戦友たちに声を限りに呼びかけずにはいられなかった。「懐かしい戦友(とも)よ。私は30年ぶりに、やっと君たちに会いに来た!遅くなって悪かった。どうか許していただきたい」。涙があふれ出、慟哭のあまり声が出なくなった。

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