掲載時肩書 | 日本国連協会会長 |
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掲載期間 | 1994/05/01〜1994/05/31 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1912/01/23 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 学習院 |
入社 | 三菱銀行 |
配偶者 | 医師娘(学習院)、再婚(大谷西本願寺二女) |
主な仕事 | 信越化学、S21年議員34歳、経企庁、労働大臣、外務大臣2度、千代田会 |
恩師・恩人 | 吉田茂 |
人脈 | 木下恵介、川崎秀二、吉田派直系、佐藤栄作、池田勇人、牛場信彦、田中角栄、大平派→中曽根派、棟方志功 |
備考 | 親子:4代の政治家、徳三郎(弟)、憲次(息子) |
1912年(明治45年)1月23日- 2000年(平成12年)11月26日)は長野県生まれ。政治家。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83-84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。引退後は国際親善などの分野で活動し、1995年(平成7年)には国連50周年記念国内委員会委員長を務めた。
1.吉田茂ワンマン宰相(私の師)
政治家としての吉田茂さんとの出会いは、私が昭和21年〈1946〉に初当選して間もないことである。呼び出されて、院内の総理大臣室に入ったのはこの時が初めてだった。吉田さんは椅子に深々と腰掛け、鼻メガネをかけてトレードマークの葉巻をくゆらせていた。吉田さんはワンマンとか貴族趣味とか言われたが、ズバリと物事の本質を掴んで決断する。非常に男性的な方だった。「日本は戦争に負けたのだから、負けっぷりをよくせねばならん」と、よく聞かされたものだ。
社会主義への期待が強く存在した時代にあって、戦後日本が歩むべき道は資本主義、市場経済以外にないという確信を持ち、この路線を徹底したが、その先見性は既に歴史が証明している。頑固で気性の激しい反面、座談の名手で、独特のユーモアは何ともいえない味わいを持ち、稚気愛すべしの感じだった
代議士に対しても辛らつな意見を出されていたが、役人の馘(くび)切りなんか平気である。外務省には吉田さんに嫌われると「Yパージ」というのがあって、怖れられていた。私が池田内閣の外相を拝命した時も、大磯に挨拶に行くと、いきなり「今の山田久就次官はダメだから替えたまえ。後任は朝海浩一郎君か竹内龍次君がいい」と言う。安保改定についての山田君の報告が、吉田さんに面白くなかったのだと思う。御大の意向とはいえ、さすがにすぐ交代させるのも問題だと思い、半年ほど留任させたのだが、その間、吉田さんは終始、機嫌が悪かった。
2.戦後処理とライシャワー駐日米国大使
戦後日本の復興に当たり、米国は歴史に類のない寛大な戦勝国であった。その最たるものは食糧、医薬品、石炭など多岐にわたる物品を供与してくれたガリオア・エロア援助で、総額は20億ドルに達していた。この処理は戦後賠償と並ぶ懸案だったが、昭和36年(1961)に返還交渉のヤマ場を迎えた。社会党などはガリオア・ヱロアは贈与であって、国会で感謝決議までしているのだから返す必要はない、と主張して国会でも論戦となった。ただ、調べていくと、片山内閣の平野力三農相までが、いずれ返しますと約束した判を押した書類まで出て来て、贈与だと突っぱねるには無理があった。
当時、首相官邸の下にコンクリート造りの丸屋根の倉庫があって、関係書類が無造作に埋まっていた。それを外務省の職員が根気よく整理して、債務額を算出した。しかし、当時の日本国力からも、とても20億ドルは払えないし、国内の返還反対論もある。
ライシャワー大使と何度も交渉し、値切りに値切った。こちらはとにかく5億ドルを切らないと国内の納得が得られない、というので頑張ったが、ライシャワーさんは「それでは本国に報告できない」と突っぱねる。
交渉は結局、4億9千万ドルを15年間の半年賦で支払うことで決着した。しかも国内派の顔を立てて、そのうち、2500万ドルは途上国の教育文化交流に充てるよう条件を付けた。ライシャワーさんの顔もあるのに、随分、強引なことをしたものである。その後、ライシャワーさんは暴漢に襲われ、重傷を負う事件に遭った。私も妻と共に虎ノ門病院に赴き、ひっそり献血した。
3.日中国交正常化に親台湾派への配慮
昭和47年(1972)7月、田中角栄政権が発足すると、田中首相はいの一番に中国との国交正常化に取り組んだ。就任早々の田中君に呼ばれて官邸に行くと、「何としても正常化をやりたい。総裁直属の機関を作るから会長になってくれ」と言う。もとより中国問題は以前から強い関心を持ってきたテーマである。自民党内の反対論が渦巻く中で日中国交正常化協議会の会長に就任したが、本当に辛く、暑い夏となった。
協議会では初会合の冒頭、「日中国交の正常化を行う」「このため田中首相が訪中する」という誰も反対できない決議をしておいてから、台湾との関係をどうするかの論議に入った。台湾とは岸信介元首相、賀屋興宣氏といった大物政治家が依然、深く関与していて、協議会の会合でも、ど真ん中に陣取った賀屋氏をはじめ中川一郎、藤尾正行、渡辺美智雄といった台湾派の諸君が猛烈な親台湾論を展開する。こういう時は言わせるだけ言わせないとどうにもならない。ひたすら我慢比べ、根競べの毎日であった。
2か月かけてようやく正常化に臨む基本方針を党議決定し、9月14日、田中首相の地ならしとして北京を訪問した。田中君の指示で訪中団には前田正男、丸茂重貞、鴨田宗一といった反対派の諸君も入れ、総勢24人という大ミッションだった。
ハイライトは18日、人民大会堂で行われた周恩来首相との会談だった。記者団にも一部始終をオープンにした、大セレモニーである。周総理が「今日は41年前、9・18事変(満州事変)が起きた日だ。今、両国は握手している。これは歴史を変えたと言える」と語ると、反対派の議員までが立ち上がって拍手喝采となった。「田中先生は統一戦線を組むのがうまい」と持ち上げる周総理に、私も「田中首相は人間学の大家だ」と応じて大爆笑となり、後は宴会に移って茅台酒と北京ダックで「乾杯、乾杯」となった。
小坂 善太郎 こさか ぜんたろう | |
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『政府の窓』1960年8月1日号より | |
生年月日 | 1912年1月23日 |
出生地 | 日本 長野県長野市 |
没年月日 | 2000年11月26日(88歳没) |
死没地 | 日本 東京都大田区 |
出身校 | 東京商科大学(現・一橋大学) |
前職 | 三菱銀行社員 信越化学工業常務取締役 |
所属政党 | (無所属→) (民主党→) (自由党→) 自由民主党(大平派→無派閥→中曽根派) |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 |
配偶者 | 前妻・小坂直子 後妻・小坂益子 |
子女 | 次男・小坂憲次(第7代文部科学大臣) |
親族 | 祖父・小坂善之助(元衆議院議員) 父・小坂順造(元貴族院議員) 弟・小坂徳三郎(第53代運輸大臣) |
第83-84・99代 外務大臣 | |
内閣 | 第1次池田内閣 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 三木改造内閣 |
在任期間 | 1960年7月19日 - 1962年7月18日 1976年9月15日 - 1976年12月24日 |
第23代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 第2次田中角栄内閣 |
在任期間 | 1972年12月22日 - 1973年11月25日 |
初代 国家公安委員会委員長 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1954年7月1日 - 1954年10月1日 |
第8代 労働大臣 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年6月16日 |
選挙区 | (長野県全県区→) 旧長野1区 |
当選回数 | 16回 |
在任期間 | 1946年4月11日 - 1983年11月28日 1986年7月7日 - 1990年1月24日 |
その他の職歴 | |
第19代 自由民主党政務調査会長 (総裁:佐藤栄作) (1971年 - 1972年) |
小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1月23日[1] - 2000年〈平成12年〉11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83・84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。