掲載時肩書 | 玉川学園総長 |
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掲載期間 | 1974/10/16〜1974/11/09 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1887/04/08 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 87 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 鹿児島師範 |
入社 | 香川師範 |
配偶者 | 入婿 離婚、牧師娘と再婚 |
主な仕事 | 電信技術養成所、広島師範、成城、教育問題研究所、全人教育(宗教、芸術、道徳、労作)、玉川、デンマーク体操普及 |
恩師・恩人 | ランシング牧師、藤江のおばさん、沢柳政太郎、熊本利平 |
人脈 | 賀川豊彦、西田幾多郎、波多野精一、森恪、徳富蘇峰、野間清治、長野修身、森清 |
備考 | クリスチャン、先祖:寺子屋師匠、6大学設立 |
1887年4月8日 – 1977年12月13日)は鹿児島生まれ。教育学者。学校法人玉川学園の創立者。1926年、 成城高等学校(7年制)校長となる。駅(成城学園前駅)を招致して宅地開発を行いその利益で学校を建設する方法で成城学園を拡大した。ちなみに現在の成城学園を発展させるにあたって小原は本間俊平に助言を求めており、本間のアドバイスと支援によって計画は形作られた。その手法を応用し(玉川学園前駅)、1929年に自ら玉川学園を創設した。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。私はこの「履歴書」を読んで、泣けて仕方がありませんでした。氏の人柄が多くの支援者をつくったのですね。
1.日露開戦を全国に打電
鹿児島の電信技術養成所で電信技術を14歳で取得。成績優秀のため、長崎と並んで日本に2つしかない海底ケーブルの外国電報施設のある大隅半島の大浜電信局に栄転した。ここの4年間でも優秀技術者として、東京の本校・電信学校で学べる機会が与えられ、出発前夜、局員5、60名が国芳少年の「壮行会」を開いて下さっている最中、小使いさんが、息を切らせて飛び込んで来て、叫びました。
「みなさん、いくさです。いくさです。いくさが始まりました」。全員、座を蹴って、横っ飛びに走る。近道のあぜ道を転げるように突っ走り、それぞれが配置に就きました。時に、明治37年(1904)2月4日。
軍事電報や動員令が殺到。沖縄、台湾、澎湖島の司令部。総督から、知事から、警察署長から返電。あらゆる回線が鳴り続け、夜を徹しての大わらわ。毎日時間外まで残って、キーを叩いたものでした。
2.兄弟姉妹からの援助で京大を卒業
大正7年(1918)、卒業論文にかかる3年生の時は、アルバイトもできず、経済的に困って、小学校教師の兄から3円、警察にいる兄から2円、郡役所の弟から3円、准教員の妹から2円、台湾にいる弟から2円、鹿児島の弟から3円、という具合に兄弟の涙ぐましい支援が届きました。いじらしい妹の手紙。
「お元気でしょうね。今月の月給9円也。親睦会費、室代、米代、みそ代、マキ代、八百屋の支払い・・差し引いてようやく2円が残りました。どうぞ、必要な本代の一部にしてください。私たち小原家の家名を上げるのはお兄さま一人です。どうぞ、頑張ってください。朝な夕なに、神仏に願をかけています」。
3,玉川学園の建設と支援者
昭和3年(1928)、東京府下の丘陵地帯(現町田市玉川学園)、100万坪(3百30万㎡)を、地価の3倍45万円で入手することができた。王子製紙社長の井上憲一さんが保証人に、講談社の野間清治さんから融資を受けることができました。玉川学園の最初の校舎、中学校の上棟式を行ったのが昭和4年3月。私42歳。その時の喜びは筆舌に尽くせません。ただただ感謝。全くの無一文から始め、よくぞここまで漕ぎつけたと我ながら驚くのでした。薄氷を踏む思いの連続でした。全人教育、個性尊重、自学自習の徹底に加えて労作教育。この4つが玉川学園の教育の根本になるものです。
開校3か月目の昭和4年(1929)8月には、「第1回教育研究会」を玉川で開催することができました。日本中から1000名近い教育関係者が集まってくださいました。講師陣には西田幾多郎先生をはじめ朝永三十郎先生、波多野精一先生、武者小路実篤先生、北原白秋先生、倫理学の藤井健次郎先生、教育学の小西重直先生、舞踊家の石井獏先生など、当時のトップクラスの方々が揃って来園してくださいました。
園内では、児童生徒が勉強の傍ら、先生たちも混じって道路工事に、運動場づくり、まき割に、園芸づくりと、労作の実習風景。今のようにトラクターなどという便利な機械のない時代、まさに汗と涙の学園づくり。来園のみなさまに大きな感動を与えたものでした。
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おばら くによし 小原 國芳 | |
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小原 國芳 | |
生誕 | 小原 國芳 1887年4月8日 日本・鹿児島県川辺郡久志村 (現・鹿児島県南さつま市) |
死没 | 1977年12月13日(90歳没) |
職業 | 教育学者 |
著名な実績 | 学校法人玉川学園を創立 |
配偶者 | 小原信 |
子供 | 小原哲郎 |
家族 | 小原芳明(哲郎の実子) |
小原 國芳(おばら くによし、1887年4月8日 - 1977年12月13日)は、日本の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った[1]。