小倉武一 おぐら ぶいち

行政・司法

掲載時肩書農政研究センター会長
掲載期間1992/03/01〜1992/03/31
出身地福井県
生年月日1910/10/02
掲載回数30 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他三高
入社農林省
配偶者小倉養 子夫婦
主な仕事青森営林局、農商省、大蔵省、第2次農地改革法(小作地46%→10)、食管法、農業基本法、米審会長、税調会長
恩師・恩人東畑精一
人脈柳田国男(先輩)、石原周夫・橋本竜伍(同期)、原安三郎(仲人)、東畑四郎(上司・精一は兄)、土方武、大和田啓気、高木文雄
備考戦前から農政改革を推進
論評

1910年(明治43年)10月2日 – 2002年(平成14年)2月14日)は福井県生まれ。昭和時代の農林官僚、経済学者。農林事務次官、政府税制調査会会長などを歴任した。特に、政府税制調査会会長は16年間を務め,「ミスター税調」と呼ばれた。旧姓は大井。著作に『土地立法の史的考察』など。元国際交流基金理事長で外交官の小倉和夫は息子。

1.日本の農業政策への提言
なぜ日本農業が米の輸入におびえるほど脆弱になってしまったのか、その是正策にある。米国のコメ生産は日本の豆類生産ほどのウエートしかないのに、そのコメの7倍も8倍もする日本の米価がなぜでき上ってしまったのか。
 その原因は戦前から日本の農業、農政は農村の困窮か、さもなくば食糧不足に苦悩してきた。その最もラジカルな打開策が戦後の農地改革であった。農地改革に関与した一人として現在を見つめれば、農村生活、食生活の改善には今昔の感がある。だが、この経済的繁栄はどこか虚弱である。日本の農村は豊かさの代償として「農業の強さ」を失った。もう保護と助成の温もりはあてにならない。輸入反対を唱えるだけでなく、自由化に耐えうる「強い農業」を目指し、本気で自活、再生への道を考える時期である。

2.戦前の農村
昭和10年(1935)8月、青森営林局勤務になった。青森営林局は青森の他、岩手、宮城も管轄が及んでおり、これらの諸県の山村巡りをよくした。自動車など利用できる時代ではなかったから、ゲートルを巻き、リュックサックを背負っての徒歩旅行である。しかしそこで見た東北の山村の生活は、眼をそむけたくなるほどの悲惨さだった。
 前年、東北地方を大冷害が襲っていた。しかし農家の窮状は、こうした一過性の事故ばかりが原因ではない。大正7年の米騒動にこりた政府は朝鮮、台湾などの外地米の増産計画に着手。その成果である外地米の大量流入が昭和恐慌と重なり米価は大暴落。都市労働者の農村還流がさらに生活を苦しくした。そこに冷害の追い打ちである。村役場に「娘の身売り相談所」ができた時代であった。
 山村生活の実態について、青森県の2つの集落に戸口調査をしたことがある。このうち田代村の方が恵まれていたが、畳敷のある家はどこにもなかった。ムシロやワラを敷いて、その上で生活しているのが普通の光景だった。大荻村ではさらにひどく、粗末な掘っ立て小屋の住居であった。翌年昭和11年に二・二六事件が起こったが、軍部の内部勢力争いもあるが、この農村の窮状背景の痛憤も大いに影響があった。

3.第二次農地改革
これは昭和21年(1946)10月21日に公布された。この成果は、国が買収した農地が174万町歩、買収をかけられた地主、約76万戸、国から売渡しを受けた農家は475万戸であった。改革前は46%だった小作地率は10%以下となり、日本の農村の基盤だった地主制はここに解体した。
 しかし日本の農地改革もその過程でさまざまな軋轢があった。農村の反対運動はGHQが封じたが、地主側からは数千件もの行政訴訟が起こり、最高裁まで上告されたものも200件を数えた。農地の買収価格は田で賃貸価格の40倍、畑の48倍となっていたが、これが憲法で定めた「正当な補償」に違反するというのが訴訟の主旨であった。
 最終的に政治的に決着がついたのは、昭和33年(1938)で旧地主層に対し、政府が「補償金」ではなく「報奨金」を払ったのである。
 これからの教訓は、農地の有効利用、食糧生産性の向上という公共の利益があって、初めて成し得たのである。

小倉 武一
(おぐら たけかず)
生誕 1910年10月2日
死没 (2002-02-14) 2002年2月14日(91歳没)
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小倉 武一(おぐら たけかず、1910年(明治43年)10月2日 - 2002年(平成14年)2月14日)は、日本の昭和時代の農林官僚経済学者。元国際交流基金理事長で外交官小倉和夫は息子。

農林事務次官政府税制調査会会長などを歴任した。特に、政府税制調査会会長は16年間を務め,「ミスター税調」と呼ばれた。旧姓は大井。著作に『土地立法の史的考察』など。

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