掲載時肩書 | 元伊藤忠商事会長 |
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掲載期間 | 2011/09/01〜2011/09/30 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1931/09/22 |
掲載回数 | |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 沼津東高 |
入社 | 伊藤忠 |
配偶者 | |
主な仕事 | 柔道部、脱繊維(70%)化、北米支配人、社内C制、 |
恩師 | 瀬島龍三 語録 |
人脈 | 大賀典雄、小粥義朗、米倉会長、丹羽副社長、日本政策銀総裁、 |
備考 |
氏は、’16年1月27日84歳で亡くなった。伊藤忠会社からの「履歴書」登場は、伊藤忠兵衛、越後正一に次いで3人目である。氏は1956年に同社に入社し、34年後に社長となるまで、石炭、船舶、自動車、エネルギー、プロジェクト開発、食品、経営企画、それに2度で13年間にわたるニューヨーク駐在など、多岐にわたる仕事に当たってきた。氏が愛用した言葉は、「Nothing is impossible」=「為せば成る」で全社員を引っ張った。
事業ごとの縦割りに陥りがちな総合商社で、垣根を超えた広い視野と行動力を社員に求めた。大胆な事業投資で他社にも刺激を与え続けた。商社の業界団体である日本貿易協会の会長に三菱、三井以外から初めて就任した。早い時期から「ダボス会議」に参加するなど各国首脳や経済人に日本の実力と考えを広める民間大使のような役割を担った。そうした交友の範囲は米欧から中東、南米、中央アジアにおよび、グローバル経営者だった。
経営企画時代に瀬島龍三・業務部長の薫陶を受けた。その基本は「縦割り」に「横ぐし」を常々強調されていたが、業務部員向けの「心得」3ケ条は次のように書いている。
1.「着眼大局 着手小局」
目標は高く、広く、長期的に。実行は着実、綿密に。
2.戦略は戦術をカバーするが、戦術は戦略をカバーできない。
3.心得メモ
(1)仕える上司の意図を良く掴み、誠心誠意使えるべし
(2)勉強せよ、経済情勢、業界情勢、営業・商品知識
(3)謙虚たれ
(4)営業部門とは御用聞きのつもりで接するように
会長を退任後は、日本政策銀行の総裁に就き、08年の民営化後に社長として金融危機などの対応にあたった。柔道とワインを愛した人でもあった。