掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1996/05/01〜1996/05/31 |
出身地 | 高知県 |
生年月日 | 1920/04/18 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 小学成績悪、夏休み宿題を母と 一緒に一晩で、病気各種、 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 寺田寅彦(縁戚)、色川武大(級友)、 庄野、吉行、遠藤、阿川、三浦朱門 |
備考 | 父:獣医 |
1920年4月18日- 2013年1月26日)は高知県生まれ。小説家。彼は部隊が南方へ出発する前々日に発熱し、翌1945年に肺結核により除隊処分となり内地送還された。なお、部隊は1944年8月にフィリピンへ動員され、同年10月から始まったレイテ島の戦いに投入されて全滅したために数少ない生き残りの一人となる。氏は幼少から病弱で胆石・胆嚢など病気のデパートのような持主で次々と紹介してくれている。
1.忘れえぬ夏休み宿題
小学校の夏休み宿題は、分厚い宿題帖を10冊ほど学校から渡されていた。こんな宿題ぐらい1週間もあれば何とか片づけられると堅く思っていた。しかしなまけ癖がつき、一日一日と、むなしく日は経っていく。ついに8月31日という日がきた。その夜のことを、私は一生忘れまい。
「お母さん、ぼく宿題やっていないのがたくさん残っているんだ・・・」。母は一瞬、私の顔を不審げに見守った。しかし母が絶望し始めるのは、次の瞬間からだった。あの木箱と机の隙間に突っ込んであった宿題帖は、予想を超えて遥かに多く、次々と果てもなく山のように出てくる。しかも、それが殆ど手の付けていない白紙なのだ。
「よくもこんなに」と言いかけて母は言葉を失い、「お前、死になさい、お母さんも死にます」と言った。-無理もない、私はそう思って、台所からガス管とコンロを引っ張ってきて、母の前に立った。母は青い顔になっていた。
「馬鹿、お母さんはそんなことを言っているんじゃありません。やるんです、これから、今晩中に何とか・・」
私は子供ながら、夏休み中に溜まった宿題を一晩でできるはずがないと思った。しかし母は、卓袱台に宿題帖の山をひろげ、既に半狂乱で取り掛かっている。-もうダメだ、と私は思った。この宿題帖は全部6年級の学力がないとできないのだー
しかしどうせ間違えるなら、最初から間違った答えを適当に書いた方がマシだと思い、母も私も何らためらいもなかった。頭に血が上り、思考力の無くなった脳でも、精神を集中してひたすら書くと、7時半頃にはどうやら出鱈目な答えで埋まった。気がつくと私は徹夜をやっていた。
母も茫然たるまま、朝日を顔に受けて、うつけたように立っている。そんな母を見ていると私は、自分がひと晩のうちに大人に成長を遂げたかのような興奮を覚えた。
2.病気仲間
私が胆石で入院する直前、島尾敏雄が急死、庄野潤三も、吉行淳之介も、遠藤周作も、近藤啓太郎も、それぞれ体調の好不調の波はあっても、人に体の加減を聞かれれば、「まあまあでしょう」と曖昧な返事をするか、夏目漱石流に言えば「病は継続中です」と答えるところで、完全な健康体といえるのは阿川弘之、三浦朱門の二人ぐらいだろう。
3.遠藤周作の見舞い
8年目に総胆管結石を再発させてしまった。また全身麻酔で手術を受け、胆管からゴム管を腹の外へ出して、その先に胆汁の袋を26時中ぶら下げるのも、8年前と同様で憂鬱極まりない。
いろいろな人が暑い中を見舞ってくれたのも、勿論ありがたかったが、遠藤周作が毎日、昼過ぎに電話をくれるのは楽しみだった。遠藤は吉行と並んで、病人としての熟達者であり、病院に慣れているのだ。
吉行は自身が入院中で、電話の会話もままならない状態であったが、遠藤は元気で、彼の声を聞くと、それだけで面白く愉快な気分になって、笑いが自然にこみあげて噴出さずにいられない。その遠藤から、今日は電話がないと思っていると、珍しく夜8時ごろに電話が鳴った。
「ああ、おれだ」その声は遠藤だった。一瞬途切れて、「いまな、吉行が死んだ」。私は、何と答えたか自分では覚えがない。
安岡章太郎 (やすおか しょうたろう) | |
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1954年頃 | |
誕生 | 1920年5月30日 日本・高知県高知市 |
死没 | 2013年1月26日(92歳没) 日本・東京都(詳細は非公開) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学英文科 |
活動期間 | 1951年 - 2013年 |
ジャンル | 小説・随筆・文芸評論 |
文学活動 | 第三の新人 |
代表作 | 『ガラスの靴』(1951年) 『悪い仲間』(1953年) 『海辺の光景』(1959年) 『質屋の女房』(1963年) 『幕が下りてから』(1967年) 『流離譚』(1981年) 『鏡川』(2000年) |
主な受賞歴 | 芥川龍之介賞(1953年) 芸術選奨(1960年) 野間文芸賞(1960年・1988年) 毎日出版文化賞(1967年) 読売文学賞(1974年・1996年) 日本芸術院賞(1975年) 日本文学大賞(1982年) 川端康成文学賞(1991年) 勲三等瑞宝章(1993年) 朝日賞(1992年) 大佛次郎賞(2000年) |
デビュー作 | 「ガラスの靴」(1951年) |
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安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年(大正9年)4月18日[1] - 2013年(平成25年)1月26日)は、日本の小説家。高知市生まれ。北満に応召されるも結核により除隊。第二次世界大戦後、病臥の中で小説を書き、芥川賞候補となった『ガラスの靴』で登場。劣等生を以て自認し[2]、個人や市民の内面を掘り下げた私小説的作品で、「第三の新人」の一人と目された[3]。米国留学後はエッセイでも活躍[4]。日本芸術院会員。文化功労者。