安井正義 やすい まさよし

機械・金属

掲載時肩書ブラザー工業会長
掲載期間1979/02/01〜1979/02/28
出身地愛知県
生年月日1904/04/05
掲載回数28 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
専門学校
学歴その他実業補習学校
入社安井ミシン商会父設立
配偶者見合:農家娘
主な仕事ミシン修理、安井ミシン兄弟商会、日本ミシン製造㈱ブラザーミシン販売・工業(タイプ・電子オルガン)
恩師・恩人出資:大倉発身(喜八郎姉の養子)、出原安太郎
人脈武藤鍬三、山本東作(日本シンガー社員),横井次男、土岐矩道、平田源一、中川芳朗、中山二郎
備考弟:実一(パートナー)
論評

1904年4月5日 – 1990年8月23日)は、愛知県名古屋市出身の実業家。ブラザー工業の創業者。1908年(明治41年)に父兼吉が安井ミシン商会を創業し、ミシンの修理販売を始める。1925年(大正14年)兼吉の死去に伴い安井ミシン商会を継承、安井ミシン兄弟商会に商号を改めミシン製造をはじめる。1934年(昭和9年)には組織変更し、ブラザー工業の前身となる日本ミシン製造株式会社を創立し社長に就任した。1950年(昭和25年)には会長に就任。1964年(昭和39年)昭和法人会会長。

1.シャトルフックの国産化
ミシン部品の心臓部に当たるシャトルフック(中釜=なかがま)は、上糸と下糸を使って縫い目を形成する部品で、昭和の初め〈1930〉にはもっぱらドイツから輸入されていた。精巧さとともに強靭さが要求され、国産化は当分困難と見られていたものである。実のところ私も当面は輸入品を使うほかないと考えていた。
 しかし弟の実一はひたすらシャトルフックの研究に打ち込んだ。その間、私は水圧機工場づくりに協力した。今度も機械の大部分は自家製である。旋盤からミーリング(フライス盤)、治工具の一部に至るまで、私が設計し、実一と共に作った。翌昭和7年〈1932〉の初夏には、ドイツ製に少しも見劣りのしない製品を作り上げた。量産に入ったのは10月に入ってからである。発売当時、ドイツ製のシャトルフックは1個85銭だった。私たちはそれより15銭安い70銭で売ることにした。輸入関税の問題もあり、よくこれは売れた。

2.米国シンガーミシンの日本最大の争議
世界最大のミシンメーカー、米国シンガー社は明治34年(1901)、日本に出先を置いて以後、独特の販売方法と強大な資金力で市場を席捲した。全国の主要都市に代理店を置いて月賦販売を進め、昭和の初年にはセールスマン8000人を数えたと言われる。ところが、当時のシンガーの従業員管理はいわば植民地並みで、セールスに不利な給与体系に加え、解雇は会社の意のまま、解雇手当もないなど、かなりひどいものであったようだ。耐え切れなくなった従業員と強硬な会社との間で7月から争議が始まり、10月25日、遂に全国的なストに突入した。しかし、翌年の2月7日、シンガーの力の前に組合側は完敗となった。

3.国産化ミシン「日本ミシン製造株式会社」の設立
日本シンガーミシンのストの最高指導者だった山本東作氏をはじめ、ベテランのセールスマン多数が退社した。腕利きセールスマンでもあった山本さんは、争議は敗れたものの、これによって全国のミシン業者は外国製ミシンに市場を支配されている現実に目覚め、国産ミシンを待望し始めた。山本さんもまた、争議を契機として熱烈な国産推進派に転じた。
 さいわい安井ミシン兄弟会社はシャトルフックが高値でよく売れており、確実に利益があがり始めていた。しかし私自身、30歳にも届かぬ若輩であるため、山本さんが出資者兼社長に二と推薦してくれたのが大倉発身氏だった。大倉さんは信州飯田藩の家老だった石沢家に生まれ、旧大倉財閥の祖・喜八郎の姉みちの養子となった人である。こうして昭和9年(1934)1月15日、工場に続いて建設中だった本社事務所の2階で「日本ミシン製造株式会社」の設立総会を行った。

4.多角化(タイプライターと電動オルガンなど)の狙い
ミシン会社がなぜ音の世界へ、と意外に受け取られるようだが、私から見れば意外でも何でもない。もともとミシンは訪問販売が主体である。折角セールスマンが家庭を訪問するなら、一種類でも多く品物を持っていた方が効果的なことは言うまでもない。永年ミシンで培った信用のお蔭で、今度はオルガンも、ということになる。編み機や家電製品も同様の狙いから出発した。
 昔、田んぼのあぜ道には大豆を蒔いた。私どもの多角化もそれと同じである。本業の周りのあぜ道が遊んでいるから、そこに豆をまき、多少でも収穫を得ようとする。肝心なのは損をしない経営をすることである。

安井 正義(やすい まさよし、1904年4月5日 - 1990年8月23日)は、愛知県名古屋市出身の日本実業家ブラザー工業創業者

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