孫平化 そん へいか

政治

掲載時肩書中日友好協会会長
掲載期間1997/09/01〜1997/09/30
出身地中国
生年月日1917/10/05
掲載回数29 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京工業大学
学歴その他
入社満州国税関
配偶者許嫁5上、再婚
主な仕事マルクス会、地下活動、友好協会、国交正常化歴史 共同声明、平和友好、
恩師周恩来
人脈郭沫若、劉承志‐高碕達之助(LT貿易協定)、園田直、松村謙三、岡崎嘉平太、池田首相、田中ー大平Line、
備考掲載の前月死
論評

1917年-1997年)中国遼寧省蓋平県(現・蓋州市)生まれ。1939年東京工業大学付属予備部に留学、同大応用化学科に進み1943年に中退して帰国。中華人民共和国成立後の1952年日本からの最初の訪中代表団を接待する。以来、中国人民外交協会理事などを歴任。1963年中国日本友好協会が設立され、副秘書長に就任。1964~67年廖承志事務所駐東京連絡処首席代表を務める。1972年上海バレエ団団長として訪日、日中国交正常化に尽力。この原稿は「遺稿」となっており、掲載直前の8月15日に亡くなられたのでした。(完全原稿なので掲載OK)

1.共産党の秘密党員に
1944年1月1日付で中国共産党に入党した。その前に39年の4月には東京工業大学付属予備部に留学入学していた。このとき一緒に秘密党員になった仲間には、「満州国首相」の甥である丁非(張紹維)さんと満州国江上軍司令部の副官だった金有声さんの二人がいる。満州国には当時、海軍はなかったが、松花江、黒竜江には軍艦を配備していたため、いわば海軍に当たる「江上軍」があった。この司令部の副官の一人で、軍の秘密を取り扱っていたのが金さんである。
 当時、われわれ秘密党員に与えられた任務は、抗日戦争をめぐる情報収集と、来るべき勝利の日に備えて占領下の満州国の状況を調査・研究することだった。共産党、八路軍が満州国を摂収した暁には円滑にその地を統治するための準備作業を進めていた事実を、歴史的資料としてここに記す次第である。

2.中日総合貿易覚書・・・LT(廖・高崎)貿易協定
1960年7月19日、日米安保条約改定の国会での強行採決の後、岸内閣に代わって池田内閣が発足した。池田首相は自民党の元老、松村謙三氏に「中国問題のすべてを任せる」と耳打ちしたという。松村氏は、前年の59年10月の訪中で周恩来首相にあった際、「私は政界人であり、高碕達之助氏は経済界の人なので、二人が車の両輪となって、日中関係を押し進めたい」と伝えていたのだった。高崎氏はかって、「満州重工業開発」の総裁を務め、中国とのつながりは会った。戦後、帰国してからは東洋製缶、東洋鋼板などの会社を設立し、政界入りした。55年のバンドン会議に日本代表団の一員として参加したことから、既に周首相や廖承志氏とも面識があったのである。
 高崎氏は池田内閣発足後の60年10月、経済界の代表13人を率いて中国を訪問し、周首相らと旧交を温めた。その後、文化使節団の両国交流などを経て、62年11月、高崎氏の一行は中国の対外貿易省との間で交渉を進め、「中日総合貿易覚書」に署名した。サインしたのは中国側が廖氏、日本側が高崎氏で、両者のイニシアルからLT貿易と呼ばれる。

3.日中共同(国交正常化)声明
1972年9月29日午前10時、北京の人民大会堂。周恩来首相と田中角栄首相が中国と日本の両国政府の共同声明の調印書に厳かに署名した。調印式には中国側から姫鵬飛外相、共産党と国家の指導者、葉剣英、郭沫若両氏、中日友好協会会長の廖承志氏らが出席したが、私もその一員として歴史的な瞬間に居合わせた。田中首相の訪中は成功し、中日両国の善隣友好関係は、新しい段階に入ったのである。
 田中首相は9月25日、大平外相、二階堂官房長官と52人の政府職員らを伴って、専用機で北京空港に到着した。田中首相がタラップを降り、周首相と固く握手するのを目の当たりにして、感動と興奮を覚えたことも忘れられない。当時、周首相は夕方から翌日の夜明けまで机に向かい、政務をこなしていた。その代わり、午前中は数時間、休息をとるのが日課になっていた。しかし、田中首相が「早寝早起き」だと知ると、周首相は長年の習慣をきっぱりと改め、夜の仕事は12時までとし、翌日の午前中は最良の状態で会談に臨めるようにしたのである。これを思い出し、私の胸には熱いものがこみ上げてきた。

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