太田薫 おおた かおる

団体

掲載時肩書合化労連委員長
掲載期間1973/10/08〜1973/11/06
出身地岡山県
生年月日1912/01/01
掲載回数30 回
執筆時年齢61 歳
最終学歴
大阪大学
学歴その他六高
入社日本特 許肥料
配偶者入婿・9歳下の妻
主な仕事宇部興産転職、労働組合結成、合化労連、総評、池田首相会談、三池・安保闘争、レーニン賞
恩師・恩人鶴五三、熊本虎蔵、渡辺年之助
人脈永野重雄・桜田武(六高) 、末廣厳太郎、松本治一郎、中山伊一郎、岡田完二郎、高野実、岩井章、前田一
備考太田ラッパは進軍ラッパ
論評

1912年1月1日 – 1998年9月14日)は岡山県生まれ。昭和期の労働運動家、元日本労働組合総評議会議長。元宇部窒素(現・宇部興産)企画課長。春闘方式を定着させた人物。1935年に大日本特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果たした。1951年創立された社会主義協会にも参加した。威勢の良い数々の発言は太田ラッパの愛称で親しまれ、社会党の青年組織社青同にも影響力を持った。

1.指導者の度胸
昭和27年(1952)の宇部興産の闘いのとき、広島からピストルを持った暴力団がやって来たし、地元の請負師も工場の防衛を頼まれ、組合の青年部と衝突して険悪な形勢になった時、私は松本治一郎先生に来ていただいた。先生は右翼の親分が一目置く度胸を持ちながら、広島の暴力団にはちゃんと帰りの汽車賃として金一封を渡し、手を引いてもらうだけの仁義を尽くすし、地元の請負師には、お前たちは会社に雇われているのだから会社を守るのはいいが、労働組合に手を出すことはまかりならぬと言って諭すなど、相手の立場を考えて説得し、それだけの効果を上げるキャリアというか、度胸の身についた人柄で、同行していた青年部長がほとほと感心していた。

2.政党と労働組合の違い
労働闘争はどんなに負けても、労働者を路頭に迷わさないことが大切である。それがその指導者に労働者がついてくるということではないだろうか。そこにはじめて勝敗を越えた団結の繋がりが発展するのである。そこにまた、政党と労働組合の違いがあるのである。昭和27年(1952)の私の首(解雇)を守る闘いのために57日間も闘ってくれた宇部の仲間に、私は金銭を離れた信頼を感じた。それ以来、体を張って先頭に立てば、労働者はその指導者を決して見捨てることはない信義の厚いものだということを悟った。

3.太田ラッパ
世間では、春闘との関連で私のいわゆる「太田ラッパ」のことを話題にしているようである。私の吹き鳴らすラッパに対して、あれはハッタリとかホラ吹きだとか、言われているが、そういう意味のものではない。
 春闘が労使の間の最大の闘いであるからには、進軍ラッパを吹きならしながら、全軍の仲間を励まし、同時に相手には何らかの恐怖感を与えることによって、弱いストを強めていかなくてはいけない。そのようなラッパは、よく考えた簡単明瞭なスローガンで、かつ迫力のあるものでなくてはならない。

4.池田首相との会談
昭和39年(1964)4月16日、ストの前日に開かれた。春闘が官民を挙げて盛り上がり、公労協、その中でも国労が特に燃えていた。4・17ストが量的にも質的にも大きく発展しそうな段階で、当局と自民党が居直り、組織の分裂、破壊を図ろうとした触発の危機を回避するために、行われたものであった。
 その当時、公労協の労働者の賃金は民間に比べて低かったし、その中でも国鉄は同じ年齢で他の公労協組合より5,6千円も低かったから、特にプラス・アルファを要求していた。だから総決起大会のときは、あの九段会館を満員にしたうえ、入りきれなかった3千人が隣の千代田公会堂に溢れる盛り上がりだった。
 会談は、池田総理と黒金官房長官、こちらからは私と岩井章事務局長がでたが、話し合いは総理の決断もあり1分でケリがついた。労働者の代表が直に総理と会って話をまとめたということが、労働者のプライドを高め、自分たちの組織に自信を持たせたのである。これは何物にも代えられない大きなプラスであった。

1954年

太田 薫(おおた かおる、1912年1月1日 - 1998年9月14日)は、昭和期の労働運動家、元日本労働組合総評議会議長。元宇部窒素(現・宇部興産)企画課長。春闘方式を定着させた人物。

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