天津乙女 あまつ おとめ

映画演劇

掲載時肩書宝塚歌劇団理事
掲載期間1976/11/12〜1976/12/06
出身地東京都
生年月日1905/10/09
掲載回数25 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
宝塚音楽学校
学歴その他宝塚少 女12歳
入社宝塚歌劇団
配偶者藤間流 花柳流
主な仕事初舞台12歳、妹も入団、長男(阪急電・ 社長)、レコード、欧州公演、労働組合、理事
恩師・恩人小林一三
人脈雲野かよ子(妹)、春日野八千代(コンビ) 、小夜福子、淡島千景、六代目菊五郎、小林米三
備考義太夫 採り入れ
論評

明治8年(1905)10月9日 – 1980年5月30日) 東京に生まれる。宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)初の東京公演(大正7年)が行われた際の生徒募集に応じて入団し、初瀬音羽子や久方靜子らと共に東京出身者として初の団員(生徒)となった。
日本舞踊に優れた名手であり、女六代目[1]の異名をとった。
芸名は小倉百人一首の僧正遍昭の「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」から命名された。
妹は雲野かよ子と池邊鶴子(新字体:池辺鶴子)。二人の妹も宝塚に所属していた。かよ子の芸名も同じ句からとられた。後輩の春日野八千代や神代錦とならんで「宝塚の至宝」と呼ばれた。
没後、2014年に宝塚歌劇団100周年を記念して殿堂入り。妹・かよ子も殿堂入りを果たしており、タカラジェンヌ唯一の姉妹で殿堂入りとなった。

1.踊りのとりこ(自覚)
大正13年(1924)2月、市村座の6代目菊五郎一座がそっくり宝塚へ来て、中劇場で公演した。これは関東大震災で焼けたための地方公演とは違い、市村座の田村さんが当時抱えていた負債を小林一三さんに肩代わりしてもらうのが理由だった。「棒しばり」や「文七元結」は毎日のように料金を払って見に通ったが、市村座の人が次の「娘道成寺」からフリーパスにしてくださった。六代目の舞台は初めてではなかったが、はっきりと私が踊りのとりこになったのはこの中劇場公演のときだった。自分の目が開き、良し悪しが判然とするなど、この機会がなかったら、今まで踊りはやっていなかったと思う。

2.名取になりたくない
最初に日本舞踊を教えていただいた棋茂都陸平さんが七年目ぐらいで松竹楽劇部に移られてからは若柳流、花柳流、阪東流のレッスンを受け、関東大震災後は藤間小勘さんに習った。小勘さんは最初の弟子の中から名取さんを作りたかったらしい。私は正直いっていろいろなお師匠さんに習いたかったので、小勘さんが私にすすめても「もらいたくない」とお断りしていた。ところが、吉岡重三郎理事長を通じて話を持ち込まれて、とうとうもらうことにしたが、「もらわない」といっていた手前、名札は3年ばかり理事長のところにあった。
 名取になると他のお師匠さんは教えるのを遠慮されるのが通常。私はいろいろなことを吸収したいと思っている時なので、簡単に藤間流と決めつけられるのがいやだった。しかし、昭和5年10月5日、神戸オリエンタルホテルで名取式をおこない“藤間乙女」の名前をいただいた。
 それでも昭和9年に東京宝塚劇場が完成すると、東京公演が1か月公演になった。日曜と土曜が昼夜二回、他は夜の1回だけ。遊ぶことが嫌いな私は、何かおけいこしたいから先生を探してほしいと申し入れて実現したのが花柳禄寿さんで、東京に出かけたときには、けいこをして下さった。私は藤間と花柳の二つの流派を並行して習っていたが、禄寿さんは私が藤間流の名取なので「お教えします」とは絶対いわれず「おうつしします」と話されていた。

3.日本舞踊が専科に
昭和8年(1933)5月、私は日本舞踊専科の誕生とともに月組組長から専科入りした。滝川末子さんは既にお辞めになっており、他の組で日本舞踊の出しものをだせなくなっていたので、私が各組に出演できるように、ということだった。日本舞踊専科の誕生はダンス専科、声楽専科に次ぐもので、発足当初は20数人いたが、まもなく私と花里いさ子さんの二人になってしまった。日本舞踊専科に入っても、もともと日本舞踊では大勢が出演することはないので、次第に使い道がなくなり、日本舞踊の人であってもレビューにも出演しなければならなくなって、辞めていく人が相次いだようだ。

4.理事就任
昭和23年(1948)宝塚に労働組合ができ私が副委員長になると、労働基準法をめぐって経営者側と労働時間、賃金などで交渉することになった。舞台の他、この交渉に随分余分なエネルギーを使うことになった。小林一三さんは私を心配してくださり、私を宝塚歌劇団の理事に選任なさった。その時の深い事情はわからなかったが、小林さんから「お前はもう組合員ではないから、組合の会合に行かなくてよろしい」といわれた。生徒から歌劇団の理事になったのは私が初めてで、約10年後に春日野八千代さんが二人目の理事となった。

5.芸の道は尽きない
昭和29年(1954)、宝塚義太夫歌舞伎研究会が宝塚大劇場で開かれた。この研究会は小林一三さんと竹本三蝶さんのお話し合いで決まった。(公演する舞台テーマを拡げるためか) 私は2回目の「喋り山姥」から出演した。「壺坂観音霊験記」や「義経千本桜」など、東京なまり、大阪なまりではなく義太夫なまりにしなければならず、動作も義太夫的にで、たいへんに苦労した。
 第8回では「本朝二十四孝」で桐竹紋十郎さんに、「菅原伝授手習鑑」で戸部銀作先生に、「加茂堤」で松本幸四郎さん、「車引」で尾上松緑さん、他に市川團十郎さんのご指導を受けた。私にとってこれらのご指導受けは、芸の道の尽きることのない深さを知る大きなプラスになったのである。

美女と才女
天津乙女

1.宝塚歌劇団のスターで、劇団理事。本項で記述。

2.バラの品種の一。1.に因んで命名。1960年兵庫県伊丹市で作出


あまつ おとめ
天津 乙女
天津 乙女
1951年「四つのファンタジア」
本名 鳥居 栄子
生年月日 (1905-10-09) 1905年10月9日
没年月日 (1980-05-30) 1980年5月30日(74歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市神田区(現・東京都千代田区
死没地 日本の旗 日本 兵庫県西宮市鷲林寺南町、香雪記念病院(現・西宮協立リハビリテーション病院
ジャンル 宝塚歌劇
活動期間 1918-1980
著名な家族 妹・雲野かよ子
主な作品
舞台『奴道成寺』『紅葉狩』『棒しばり』
 
受賞
紫綬褒章
勲四等宝冠章
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天津 乙女(あまつ おとめ、1905年(明治38年)10月9日 - 1980年(昭和55年)5月30日[1])は、宝塚歌劇団団員(元月組主演クラス・月組組長)。のちに同劇団理事をつとめた[2]。本名鳥居 栄子。愛称エイコさん。

芸名は小倉百人一首収録の僧正遍昭の歌

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ(あまつかぜ くものかよいじ ふきとじよ をとめのすがた しばしとどめん)

から命名された。

後輩の春日野八千代神代錦とならんで「宝塚の至宝」と呼ばれた。

  1. ^ 70年史(別冊) 1984, p. 121.
  2. ^ 『昭和舞台俳優史』毎日新聞社、1978年、118頁。
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