掲載時肩書 | 早大総長 |
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掲載期間 | 1964/05/12〜1964/06/10 |
出身地 | 沖縄県 |
生年月日 | 1891/10/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 三井物産 |
配偶者 | 日本女子大 |
主な仕事 | 弁護士(早大講師)、英国留学2年、教授、総長、私学団体連合 |
恩師・恩人 | 寺尾元彦教授 |
人脈 | 堤康次郎、木下郁、田中穂積、津田左右吉、南原繫、島田孝一、茅誠司、矢内原忠雄 |
備考 | 理解結婚 |
1891年(明治24年)10月5日 – 1976年(昭和51年)2月13日)は沖縄県石垣島生まれ。法学者(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 – 1966年)。大学総長の実務を取り仕切る中で沖縄復帰運動にも関わり、1962年には茅誠司・大河内一男ら有志で「沖縄問題を話し合う会」を結成、1964年にはこれを沖縄問題解決促進協議会に進展させ代表委員となった。佐藤栄作首相の沖縄訪問の際には特別顧問となり、日米の政財界人や有識者・ジャーナリストを動員して「核抜き本土並み」の本土返還を実現させる背景作りを担った。旧名大濱 信陪。妻は評論家の大浜英子。
1.理解結婚と呼ぶ
大正11年(1922)4月に結婚した。家内は、3月に日本女子大を卒業したばかりだった。よく人から「恋愛」か「見合い」かと訊かれるので、そのどちらでもない「理解結婚」だと答えている。その理由を尋ねられた。
私は大学を卒業して会社勤めをし、さらに弁護士の開業といった具合に生活環境が変化しつつあったが、人間30を越えると、孤独の寂寥感に悩まされて家庭を持ちたいとの衝動に駆られるものらしい。それに弁護士となると、一家を構えないと都合が悪い。そこで結婚を思い立って、まず候補相手の父親に相談を持ちかけてみた。父親は乗り気であったが、当人は好き嫌いというのではなく、多くのみじめな結婚を見せつけられてきた関係から、結婚そのものに懐疑的でいっこうに煮え切らない。女官になりたいなども言っていたが、心境としては修道院の方向へむいていたかもしれない。そこで私から撤回しようと思っていたところ、父親に説得されて本人も思い直し、到頭私と結婚することに。だからこれは「理解結婚」が適当でしょう。
2.親の心・子知らず・・私学団体総連合の結成と法案制定
戦後私学が当面した共通の課題は、民主的国家秩序の中に私学の占むべき地位、その姿勢、国との関係のあり方等を明確にする一方、公の補助の道を開いてその財政的基礎の強化を図ることであった。この観点から私立学校法の制定が要請されたが、全私学の力を結集してその立法化を促進する必要上に私学団体総連合が結成されたのであった。
私立学校法の内容は、私学団体総連合と文部省とが共同して検討を進めていたが、私学の自主性を強調しておきながら、その内容を見ると多くの監督規定を織り込んでいたので、私は強くその緩和を主張した。しかし、文部省は公の支配に属さない教育機関に対しては公金を出してはならないとする憲法の規定との関係上、やむを得ないとそのまま国会に上程されてしまった。仕方なく非常手段でGHQに直訴となった。
民間情報教育局(CIE)の主任ルーミスさんを訪ね、削除すべき規定十か条を指摘し、国会法案の訂正を指令してくれるよう頼んだところ、了承し、早速手配してくれたので、我々の主張は貫徹された。
それほどだのに国会において同法案が審議された際、早稲田大学ではこの法案に対する猛烈な反対運動が起こって私は板挟みになり、「親の心子知らず」とはこんなものであろうかと思ったことがあった。
3.宮中の御進講ルール
毎年1月、宮中において講義始めの儀が執り行われ、知名の学者がご進講を申し上げる。この儀式には、人文科学、社会科学、自然科学の三分野から各一名ずつの学者が選ばれ、30分間ずつ各自の専門分野についてご進講申し上げる。なお、各分野についてそれぞれ二人の候補者が定められ、二人とも席にはつらなるが、一人は控えとして次の年のために見習いをするのが建前になっているとのことである。
私も総長就任後、その栄を賜り、お引き受けをした。31年度(1956)のご進講は金田一京助博士(人文)、本庄栄次郎博士(社会)、亀山直人博士(自然)の3人であったが、高橋里美博士(人文)、薮田貞治郎博士(自然)と共に私も控えとして連なった。翌32年1月は3人がご進講申し上げたが、私は株式会社制度の功罪という題を選んだ。