掲載時肩書 | 将棋王座 |
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掲載期間 | 1959/09/23〜1959/10/14 |
出身地 | 岡山県 |
生年月日 | 1923/03/13 |
掲載回数 | 22 回 |
執筆時年齢 | 36 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | 小学校 |
入社 | 木見9段の内弟子 |
配偶者 | 縁戚娘 |
主な仕事 | 升田先輩の指導、15歳で5段、月給東京の1/4、木村名人から名人位、紫雲丸事件、29タイトル |
恩師・恩人 | 平井長之丞、木見金次郎 |
人脈 | 升田(同門先輩)、大原総一郎、原吉平、 |
備考 | 両親が夫婦養子で大山に |
1923年(大正12年)3月13日 – 1992年(平成4年)7月26日)は岡山生まれ。将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。1952年(昭和27年)、29歳の、大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利、当時の、史上最年少名人が、誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。「名人位の箱根越え」は、坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者になった。
1.最初の将棋指導
小学校1年生の3学期、私は家から5,6丁離れた平井長之丞という先生の家に通い始めた。平井先生の家はゴザの問屋で、将棋はアマチュア2段という話だった。平井先生の教育方針はこうだった。「田舎の人は何でも構わず、ポンポン指しながら教えている。だがそんなやり方ではどんなに強くなっても私ぐらいにしかなれない。ほんとに強くなるのは、なんといっても基本定跡を覚えることだ」というわけで、先生は当時8段だった木村義雄14世名人の「将棋大鑑」を買ってきた。
その本には6枚落ちから平手までの定跡が書いてある。私は1年生だからむずかしい本は読めない。そこで先生が最初から読んでくれる。意味のわからない言葉は、先生が別の言葉でわかるように説明してくれる。駒の動き方も一手一手暗記式に覚える。覚えたら何べんも盤の上で並べてみる。完全に覚えたら、今度は反対にその定跡破りから、最後の詰め方を教わって学課を卒業する。卒業すれば次は実戦に移る。6枚落ちなら6枚落ちで先生に勝つまで何べんも戦う。勝つようになると、今度は5枚落ちを教えられ、暗記から盤に並べ、最後に実戦という課程を経て4枚落ちに上がった。先生の教育が時間を惜しまない親身のやり方だった。小さな私は親類へ行くような気楽さで行けたし、先方も家族の一人として扱ってくれた。
2.木見金治郎先生に入門初日(小学校卒業時)
先生は大阪市北区老松町に住んでおられた。そのころは先生60歳。2階建ての家は、下が居間で、上の六畳と4畳半がけいこ所である。先生夫妻にはこどもがなかった。門下三人衆の大野5段、角田4段、升田2段らが、内弟子というより、その家の子供たちのように自然に見えた。三人衆は2階のけいこ所で、昼はお客さん相手に将棋を指し、夜は後始末してそこで寝た。
先生はその日、すし屋からおけずしを取寄せて一行3人にごちそうしてくれた。兄弟子たちは、ころあいを見計らって、私を2階へ連れて行った。一番指そう、お手並み拝見というわけである。私の相手は当時2段、17歳の升田さんだった。角落ちの手合いで、私は玉をヤグラにかこって右から攻めた。角田さんがそばで見ていた。私が攻める。升田さんが受ける。攻めても攻めても升田さんの陣はびくともしない。3度戦ったが、ぜんぜん歯が立たなかった。私は入門当日、升田さんに3番ストレート負けでやられた。
3.升田さんと対3番勝負(初勝利で名人挑戦者に)
昭和22年(1947)、升田さんと私の三番勝負の対局場は高野山であった。第一局は2月26日金剛峯寺で指し、升田さんの攻めを受けきって勝つことができた。続く第二局は三日後の29日、場所を普門院に移して対局が行われ、私が負けて一対一の対スコアとなった。最後の一番が勝負である。勝負は中盤で私の方の形勢がわるく、だんだん差が広がるばかりで、終盤では升田さんの方が一方的に優勢になった。ところが、たっぷり51分を残していた升田さんは受けを一手間違えた。それが完全にトン死の筋である。私はうれしいような、悪いことをしたような、何とも言えない不思議な気持ちでいた。すると、升田さんは、「錯覚、いけない。よくみるよろし」と、おどけて言って投了した。私はこの言葉を聴いて胸がつまった。
大山康晴 十五世名人 | |
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第11期名人戦を制して新名人となる (1952年7月16日) | |
名前 | 大山康晴 |
生年月日 | 1923年3月13日 |
没年月日 | 1992年7月26日(69歳没) |
プロ入り年月日 | 1940年2月25日 |
引退年月日 | 1992年7月26日 (現役のまま死去) |
棋士番号 | 26 |
出身地 | 岡山県倉敷市 |
所属 | 将棋大成会(関西) →日本将棋連盟(関西) →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 木見金治郎九段 |
弟子 | 市川伸、有吉道夫、中田功、行方尚史 |
永世称号 | 十五世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 大山康晴 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 80期(歴代2位) |
一般棋戦優勝回数 | 44回(歴代2位) |
通算成績 | 1433–781 (.647) |
順位戦最高クラス | A級(44期[注釈 1]) |
2023年12月21日現在 |
大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。
主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。
順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた[1]。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町の名誉市民・名誉町民。
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