掲載時肩書 | 帝国人造絹絲社長 |
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掲載期間 | 1958/05/18〜1958/06/09 |
出身地 | 群馬県邑楽 |
生年月日 | 1894/07/05 |
掲載回数 | 23 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 前橋中 |
入社 | 鈴木商店 |
配偶者 | 9歳上 再婚女2児子連れ |
主な仕事 | 帝国人絹、中近東、天津、本社、社長、参議員、商工相・運輸相(吉田) |
恩師・恩人 | 金子直吉、三浦菊太郎 |
人脈 | 小暮武太夫、平田周一郎、丸山徳三郎、高畑誠一、父への反面教師 |
備考 | 父・小学校長、女性編歴赤裸々披露 |
1894年(明治27年)7月5日 – 1980年(昭和55年)3月9日)は群馬県生まれ。政治家、実業家。1918年(大正7年)鈴木商店に入社、1925年(大正14年)、旧帝国人造絹絲(現帝人)に派遣され、1945年(昭和20年)11月には社長に就任。以来、参議院議員だった昭和22年(1947年)から9年間をのぞき一貫してトップの座に君臨し、帝人を世界的な合繊メーカーに育て上げるとともに、繊維業界のリーダーとして活躍した。議員在職中は、商工、大蔵、運輸の各大臣を歴任。日本・ベルギー協会会長(初代)を歴任。後妻の政子夫人はマスコミによく登場して有名。
1.困窮生活の惨めさ
父は小学校長をしていたが、のん気というか楽天家というか無計画な生活態度が改まず、家族7人が貧乏のどん底に陥った。私の家には父祖伝来の長刀があったが、これがなかなかいい刀で、私の家にとっては家宝というべきものであった。ところが、いままで米を借りてきた家にまで、借金が溜まりたまって払えなくなった。それで今までの借金のほかに新規に米を4俵受け取って、この刀を農家に引き渡すことになった。この時私は士族の成れの果てが窮迫して、伝来の宝刀を米塩の質に替える惨めさを切実に味わった。
また明治43年(1,910)ごろ、元日にはもちろん、モチどころではなく、食う米さえ一粒もなくなってしまった。それで日ごろ米に混ぜていた引き割り麦だけを炊いて、お菜もないので味噌をなめて済ませた。あまりの惨めさにそのとき私は「おとっさん、今はこんなに貧乏だけどそのうちに僕がきっと偉くなるからな。今日のこの気持ちを忘れないために、これから元日には、雑煮の代わりに麦飯に味噌を僕の家憲にするよ」と宣言。
2.恋ハンターの別れの口説き
旧8月の名月の頃には村から村へと盆踊りが続く。ある月の凄くきれいな盆踊りの晩、あるいは十五夜だったかも知れないが、私は初めてある女性と知り合った。それは挑発する金子に対する意地からだったともいえる。数え年二十歳のときである。その後、この女とは何度か逢瀬を楽しんだ。この女は私より2つぐらい年長で父親に死に別れ、母と妹3人で貧しい暮らしをしていた。私は彼女の機織りの夜なべの終わるころを狙って、近くの桑畑に忍び込み、指で口に突っ込んで口笛を吹く。やがて15分もすると、姉と妹の機織る音が病み、ランプが消えて、彼女が現れる。私はワクワクする胸を抑えて彼女を迎えるのだった。
ところが望んでいた東京に職が決まり、急遽上京しなければならなくなった。この時、初めて知った女との惜別の情がわき、ひと月ほど悩んだ末に、意を決して別れて上京することにした。さて、こうなると女を納得させるのが一仕事だ。黙って上京して追っかけて来られでもしたら一大事だし、またむげに振り棄てて行くには女がいとおしい。それで、ある日舘林に行き、教員時代に貯蓄した虎の子の約40円から2円を出し、女持ちの懐中鏡と財布を買った。これを持って一夜女の所へ行き「こうして東京に行かなければならないので、悲しいがしばらく辛抱してくれ」というと、女は非常に悲しんで「別れるのは嫌だ。行かないで」と取りすがってくる。私はいろいろ知恵を絞って話し、やっと明け方に女を説き伏せ納得させることができた。
3.私の生涯を大別すると2つ
一つは学窓を出て完全に自立するまでの、自分の力ではどうにもならぬ因果関係による環境に支配されていた時代である。もう一つは、学窓を出てから以後の私である。ここに不遇な環境の支配を克服脱却した私は、これまでに鬱積した反発心を爆発させた。だから実社会に出てからの私は奔放不羈(ふき)、人に頭を押さえられることが嫌いで常に一方の旗頭でなくては承知できず、サラリーマンとしては実に手に負えない存在だったらしい。だから鈴木商店、帝人を通じての同僚大幡久一は、「大屋のヤツは手の付けられない乱暴者で、いつ土俵を割るかハラハラして見ていたが、土俵際までは来てもいつもうまく回り込んだり打っちゃったりして、とうとう最後までやり通してしまった」とよく言っていた。
大屋晋三 おおや しんぞう | |
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生年月日 | 1894年7月5日 |
出生地 | 日本 群馬県邑楽郡明和町(旧佐貫村) |
没年月日 | 1980年3月9日(85歳没) |
出身校 | 東京高等商業学校(現在の一橋大学) |
前職 | 帝國人造絹絲代表取締役社長 |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 初婚・大屋茂登子 再婚・大屋政子 |
第12代 運輸大臣 | |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年2月16日 - 1950年6月28日 |
内閣 | 第2次吉田内閣 |
在任期間 | 1948年12月14日 - 1949年2月16日 |
第31代 商工大臣 | |
内閣 | 第2次吉田内閣 |
在任期間 | 1948年10月19日 - 1949年2月16日 |
選挙区 | 大阪府選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1956年6月3日 |
大屋 晋三(大屋 晉三[1]、おおや しんぞう、1894年(明治27年)7月5日 - 1980年(昭和55年)3月9日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員、帝人社長、日本・ベルギー協会会長(初代)。
大屋政子の夫。