塚田公太 つかだ こうた

繊維

掲載時肩書倉敷紡会長
掲載期間1961/07/09〜1961/08/05
出身地新潟県鳥坂村
生年月日1885/09/27
掲載回数28 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他有恒学舎(中学)
入社三井物産
配偶者呉服問屋娘、和田豊治(富士紡・仲人)
主な仕事参禅、(ボンベイ、大阪)38年、物産綿花部門ー>東洋綿花、欧米視察、貿易庁長官
恩師・恩人間島与善、児玉一造(上司)
人脈田崎仁義、菅礼之助、野田卯一、増田義一、来栖三郎、杉道助、伊藤忠兵衛
備考代々庄屋、米文通60年、
論評

1885年9月27日 – 1966年6月9日)は新潟県生まれ。実業家。東洋棉花会長、日本織物統制社長を経て、1946年公職追放された三井物産出身の向井忠晴に代わり貿易庁長官についたが、その後公職追放となる。1951年倉敷紡績社長。1955年倉敷紡績会長。日本経営者連盟(のちの日本経営者団体連盟)常任理事等も務めた。

1.米国ペンフレンドと60年の付合い
有恒学舎(中学)の3年に、清水先生から特別に英語の個人授業を受けたが、その先生から「英語の勉強になるから、米国の少年と文通してみたらどうか」といわれた。それから絵葉書などの交換を始めた。相手の少年はボストン近くで、マサチューセッツ州に住むC・コリンズ君だ。その後、世の中や環境の移り変わりで文通の途絶えたこともあったが、始めたのが明治34年(1901)だったから、彼との付合いは60年も続いているわけだ。おそらくこれは、今でいうペンフレンドのハシリかもしれない。
 昭和2年(1927)の夏から4年の春にかけて欧米行脚のたびに出たとき、ふとコリンズ君を思い出した。とにかくたまらなく懐かしいので、番地は忘れていたが記憶をたどって、彼にロンドンから手紙を出した。そしてニューヨーク支店に顔を出したら、なんと、彼からの手紙が待っていた。文面は「大きな喜びをもって君の手紙を受け取った。実にうれしい。是非うちに遊びに来てくれ」といったものであった。
 まるで修学旅行に行く中学生のように弾んだ気持ちで、現東棉副社長の志村勇君に同伴してもらい、コリンズ夫妻にあった。夫妻は大変喜びし、心を込めたお昼をごちそうしてくれた。お返しにその晩、こちらのボストンのホテルに招いて夕食を共にして、つもる話の数々に楽しく感激の一夜を過ごした。

2.インド人に独立国を勧奨する(ブラックリストに)
明治40年(1907)9月、私は三井物産のインドボンベイ支店綿花係に配属された。着任後まもない10月頃、インド独立のティラックという志士がボンベイの大審院で2年か3年の流刑を宣告された。その時分はまだガンジー氏も有名でなく、従ってこのティラックが独立運動の急進派を代表するヒーローになっていた。
ところが彼の処刑が決まると、現地人が一斉に蜂起するという大事件が起こった。ついに鎮圧に乗り出した官憲の機関銃で、何人もの死傷者を出す騒ぎになった。24歳の私はこの歴史的事件に度胆を抜かれた。
 ボンベイで2年ほど、デカン高原の奥地に綿の買付にやらされた。その時の世話役だったインド人にバチラジ・ジャムナラルという2歳下の、大変賢明な金持ちがいた。彼は英国にしばしば献金しているから、英国で「サー」に位する称号を与えられ、それが何よりの自慢であった。しかしある日、私は明確に言った。
「そんな英国からもらった名目だけの称号なんか返上したらどうか。いまのインドは英国の属領に過ぎない。こんな称号で感激していたんでは、インドとインド人は永久に救われない。少し日本人を見習ったらどうか」。
 それから例の有名なガンジーの無抵抗主義による英国への反抗が始まるわけだが、驚いたことにバチラジ・ジャムナラル君がいつの間にかガンジー氏の幹事長みたいな格好になっていたのである。

3.児玉一造氏が東洋棉花を独立させる
児玉さんは、三井物産では早くから俊英の名をほしいままにし、山本条太郎さん、後に政界に走った森恪さんと並ぶ物産の出世三羽烏の一人であった。三井物産から東洋棉花を独立・創立したのも児玉さんである。その理由は、大正3年(1914)当時、三井物産には砂糖、木材、機械などを中心に部が沢山あったが、取扱高からすると綿花部が断然第一位で、金額では全体の三分の一位を占めていた。しかし物産の社内金利は銀行より日歩1,2厘高かった。そこで児玉さんは、綿花部というのは競合他社の日綿や江商のような綿花専業にすると、金利差がなくなり資本金だけの有利さが出ると考え、三井の綿花会社として独立しかないと考えたのであった。三井の名前を付けなかったのは、綿花というものは投機的要素があって、極めて危険の多い商売だから、万一の場合、累を三井家に及ぼさないという配慮からであった。

塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 1966年6月9日)は日本実業家東洋棉花会長、日本織物統制社長、貿易庁長官倉敷紡績社長、同会長等を務めた。

[ 前のページに戻る ]