掲載時肩書 | 前衆議院議長 |
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掲載期間 | 1956/07/29〜1956/08/08 |
出身地 | 滋賀県 |
生年月日 | 1889/02/10 |
掲載回数 | 11 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 彦根中 |
入社 | 自営 (鉄工・郵便) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 郵便局長、軽井沢・箱根開発、西武鉄道、西武デパート・衆議院議長、国立駅名付け |
恩師・恩人 | 大隈重信 |
人脈 | 永井柳太郎、利光鶴松、小磯参謀長、馬越恭平、三木武吉と保守合同を推進 |
備考 | 柔道6段 |
1889年(明治22年)3月7日 – 1964年(昭和39年)4月26日)は滋賀県生まれ。実業家、財界人で、政治家でもあった。戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活の安定に寄与するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。堤康次郎が開発した国立は高級住宅街として、軽井沢や箱根などは日本を代表するリゾート地として発展し、現在も人気を集めている。池田勇人と仲が良く、派閥の色分けで言うと宏池会に属す。河野一郎とは仲が悪く、池田に「河野と縁を切れ、切らないと付き合わない」と迫って揉めていたとき亡くなった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長。「ピストル堤」の異名を持つ。
1.学生時代
明治36年(1903)春、21歳のとき早稲田大学政治学科に入学した。柔道部や弁論部に入り熱中したが株式も売買した。後藤毛織の株を買って、6万円ほど儲けた。私はその金で蠣殻町の三等郵便局長の権利を1万円で買ったり、渋谷に鉄工所を経営して100人ほどの人を使うなど、大いに今でいうアルバイトをやった。勉強は学校へ出ない代わり、ノートとか参考書の類は実によく読んだものである。ノートなどは5日分ぐらいはわずかの間に読めるので、毎日学校に行って、先生の言うことをただ筆記して帰るよりは、この方がはるかに時間が有効だ。これが私の主義だった。だから学校に行くときでも家から人力車で行き、学生の羨望の的となったが、これも道が悪くて歩くのに時間がかかるからだったのである。
2.卒業して雑誌社経営
学校を卒業したからとて、私は就職する必要もない。すでに三等なれども郵便局長、小なりとも鉄工所の経営者である。いろいろ素人経営をしながら、卒業と同時に今度は雑誌を始めることになった。
雑誌の経営というものは難しいものである。私が社長となった新日本社は、新日本という政治評論雑誌を出版し、主宰が大隈重信侯で主筆は永井柳太郎。大隈侯の論文を毎号載せる雑誌だった。もともとこの雑誌は富山房から1万部出れば引き合うというので引受けたものだが、実際に発行してみるとなかなか容易でない。出してから3月も立つと返品がどかどかと返ってくる。どうしても5、6千部しか出ないで、努力したがとうとう廃刊することになってしまった。しかしその当時山川均や山川菊枝という人たちにデモクラシーについて書いてもらったりした。また大杉栄の恋人だった伊藤野枝さんもよく社へ来ていたりした。だから、デモクラシーとか進歩思想とかのハシリを演じたわけで、多少とも意義はあったと思っている。
3.土地開発事業
事業には何度も失敗した。考えてみると、儲けよう儲けようと考えたのがいけない。自分は儲けなくてもよいから、この世の中のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だと気付いた。そして最初に取り組んだのが不毛地の開発事業であった。この第一歩は大正7年(1918)、軽井沢千ケ滝から始まった。次いで大正8年には箱根の強羅に10万坪の土地を買い、翌9年には箱根土地株式会社を創立して、土地開発事業に全力を挙げることになった。
土地の開発と関連して重要なのは交通機関である。だから箱根には有料道路を設けたり、飛行機を利用することを考えたり、いろいろと頭を絞った。箱根の有料道路を作るについては、内務省や関係当局と随分議論したが、結局許可になって、自動車道路法の制定の一つの原因になったほどの全く新しいものだった。もっと新しい考えを実行したのは大正15年(1926)、東京から箱根へ水上飛行機を飛ばしたことである。そして、軽井沢にも飛行機を飛ばそうと、軽井沢にも飛行場をこしらえた。何しろ飛行機の珍しいころである。初飛行の日には約3万人が集まった。
堤 康次郎 つつみ やすじろう | |
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1955年ごろ | |
生年月日 | 1889年3月7日 |
出生地 | 日本 滋賀県愛知郡愛荘町(旧・八木荘村) |
没年月日 | 1964年4月26日(75歳没) |
死没地 | 日本 東京都千代田区 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部政治学科卒業 |
所属政党 | (立憲同志会→) (立憲民政党→) (翼賛政治会→) (無所属→) (民政旧友会→) (新政クラブ→) (改進党→) (新党同志会→) 自由民主党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 滋賀県大津市名誉市民 |
配偶者 | 堤コト 堤文 堤操 |
親族 | 長男・堤清 二男・堤清二 三男・堤義明 四男・堤康弘 五男・堤猶二 |
第44代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1953年5月18日 - 1954年12月10日 |
天皇 | 昭和天皇 |
選挙区 | 滋賀県全県区 |
当選回数 | 6回(通算13回) |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1964年4月26日 |
選挙区 | 滋賀県全県区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1924年5月11日 - 1945年12月18日 |
堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年〈明治22年〉3月7日 - 1964年〈昭和39年〉4月26日)は、日本の実業家、財界人、政治家。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者で、第44代衆議院議長を務めた。滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民[1]。正三位勲一等。
「ピストル堤」の異名を持つ。