掲載時肩書 | 堀場製作所会長 |
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掲載期間 | 1992/04/01〜1992/04/30 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1924/12/01 |
掲載回数 | |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 甲南高 |
入社 | 堀場無線 研究所 |
配偶者 | |
主な仕事 | 自爆専用ロケット、VB1号、堀場製作所、医学博士、日立製作と提携、産業情報センター |
恩師 | 荒勝文策 教授 |
人脈 | 大沢竜夫賞、石川芳次郎賞、父京大教授:信吉賞 |
備考 | おもしろ おかしく |
氏は’15年7月14日90歳で亡くなった。1992年4月の「履歴書」に登場した。京都大学在学中の1945年、「堀場無線研究所」を創業、学生ベンチャーの先駆けと言われた。分析・計測機器の専門メーカーとして事業を拡大し、自動車の排ガス測定装置で世界的な企業に育て上げた。78年、53歳で会長に就任して経営の第一線から退き、ベンチャー企業の育成に注力した。2004年に若手研究者が対象の「堀場雅夫賞」を創設した。
昭和46年(1971)に大阪証券取引所に上場する際、当時の高橋理事長から「おたくの社是は何ですか」と問われ、ポカンとしたと書いている。そのとき初めてその必要性を知ったが、そのままで済んだ。しかし、昭和49年に今度は東京証券取引所で上場する際にも同じことを質問され、二度まで「社是のない会社ってあるのですね」と感心されてしまった。このままでは上場資格に汚点が残ると思い、氏は意を決して社是は「おもしろおかしくでいこう」と役員会に持ち出す。これには日ごろ従順な役員全員が反対し、「うちは分析計という堅い仕事でっせ。ここはおもしろなくともまともなやつでいきまひょ」と拒否された。役員や社員には吉本興業的な社是ではプライドが許さいと思ったのだろう。
氏は、たかが社是なのだからとそのときは引き下がったが、秘かにチャンスをうかがっていた。一旦こうと思い込んだら執念深い。創立25周年の昭和53年、会長を退く際に「記念品は要らんから例のあれを社是にしてくれへんか」と強引に認めさせたという。面白く愉快なエピソードを「履歴書」で紹介してくれていた。
ほりば まさお 堀場 雅夫 | |
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生誕 | 堀場 雅夫 (ほりば まさお) 1924年12月1日 |
死没 | 2015年7月14日(90歳没) 京都 |
住居 | ![]() |
出身校 | 京都帝国大学 |
職業 | 実業家(株式会社堀場製作所) |
テレビ番組 | 堀場雅夫のこころはベンチャー |
肩書き | 財団法人京都高度技術研究所 (ASTEM) 最高顧問 日本新事業支援機関協議会 (JANBO) 会長 京都商工会議所副会頭 京都市ベンチャー企業目利き委員会委員長 株式会社京都ニュートロニクス監査役 など |
親 | 堀場信吉 |
堀場 雅夫(ほりば まさお、1924年(大正13年)12月1日[1] - 2015年(平成27年)7月14日)は日本の実業家、株式会社堀場製作所創業者、および同社最高顧問。