掲載時肩書 | 堀場製作所会長 |
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掲載期間 | 1992/04/01〜1992/04/30 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1924/12/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 甲南高 |
入社 | 堀場無線 研究所 |
配偶者 | 酒蔵娘(神戸女学院) |
主な仕事 | 自爆専用ロケット、堀場製作所、コンデンサー(PH計)、医学博士、日立製作と提携、海外戦略、産業情報センター |
恩師・恩人 | 荒勝文策 教授、出資(大沢竜夫・石川芳次郎) |
人脈 | 青井捨三、加藤隆一、木内勝三、高木耿、井上四郎、大浦政広 |
備考 | 社是「おもしろおかしく」、父・京大教授:信吉賞 |
1924年〈大正13年〉12月1日- 2015年〈平成27年〉7月14日)は京都生まれ。実業家。株式会社堀場製作所創業者および同社最高顧問。堀場は「人生の能力・知力・経験・体力は全部を掛け合わせて40代がピークであり、50代になるとそれが落ちてきてしまう。そこで50歳になったら経営者を退き、後継者(現役)は40代がいい」と、「社長50歳定年制の実行」を1971年の大阪証券取引所・京都証券取引所への上場が実現した際に宣言する。そして目標の50歳から3年が経過した1978年に堀場は創立25年記念式典で正式に引退を表明。引退後は財団法人京都高度技術研究所 (ASTEM) の最高顧問、日本新事業支援機関協議会 (JANBO) 会長、京都商工会議所の副会頭、などを務め起業家の育成に力を注いた。
1.父(京大教授)の教育
私が中学生になると父の私に対する態度が急に厳しくなった。時々甲南学校へやってきては担任の先生に私の様子をただすのである。成績がもう一つだと「恥をかかした」と本気で怒る。寮で模型雑誌と科学の本ばかり並んでいる私の本棚を見ると「古典文学も読め。読書のレベルが低すぎる」とくる。
しつけは特別うるさかった。京都へ帰る父を省線(現JR)の摂津本山駅のホームまで見送った時のことだ。父が電車に乗ったので「さいなら」と引き返したら翌日付の消印で手紙が来た。「目上の人間を見送る際は、電車が見えなくなるまで立っていなければならない。お前のような態度はなっていない」とある。東京出張の父に頼んで連れていってもらう時も、列車は父が二等、私は三等車両と厳然と差をつけられた。
2.学生でベンチャービジネス第一号
京都大学の三回生になって半月後の昭和20年(1945)10月17日、京都市下京区烏丸通五条上ルの民家を借りて、「堀場無線研究所」の看板を掲げた。エレクトロニクスという言葉はまだ英単語にもなく、無線という言葉は弱電の代表的な技術を表していた。英訳のホリバ・レディオ・ラボラトリーの頭文字である「HRL」を横に並べ、ラグビーへの思いからそれを長円で囲んだマークも作った。たぶんわが国の学生ベンチャービジネス(VB)の第一号ではないかと思う。
研究所といえば聞こえはいいが、古ぼけた木造二階建てだ。敷地は80㎡ほど、その二階に借りてきた旧陸軍技術研究所の実験機材を並べた。取り組むテーマは、現在のコンピュータと同じ基本回路を使った計数機の二進法を十進法に切り替える作業に絞った。
3.社員と一緒に博士号に挑戦
昭和31、2年頃になると、社内の空気が沈んできた。よく聞くと、当時の技術者は大企業に就職すると、その会社の研究所に入るか、卒業した大学の研究教室へ国内留学して博士論文を書く。3、4年で博士になって会社に戻るとエリートコースが待っている。当社の社員は「一緒に卒業したのに、こちらは忙しくて論文どころではない」というわけだ。私も技術屋の端くれ。その気持ちはよくわかる。しかし、何年も国内留学させる余裕はない。それなら各自が取り組んでいる開発そのものをテーマにすることはできないだろうか。「博士論文にならんような仕事は独創性がないということだ。私もやるから皆で頑張ろう」と呼びかけた。
私も負けてはいられない。自分が言い出して社員と約束した以上、反古にはできない。といって、理学博士や工学博士では社員の中にもう手の届きそうなのがいる。社員の後塵を拝するようでは社長のメンツが立たない。そこで医学博士に目を着けた。これならライバルはいないだろう、というわけだ。
以前から興味のあった血液解析をテーマに取り上げた。わずかの時間を見つけては京都府立医大の舟木広教授の教室に通い、論文をまとめていった。まことにヒトの体は繊細微妙にできている。血液や体液のPHをきめ細かく測るだけでなく、正確にコントロールする。眼にしたって自動焦点、自動絞り込みが標準装備だ。いくら精巧な機械でも遠く及ばない。せっかく人間に生まれたからには思うさま生の喜びを味わいたい、改めてその感を強くした。
物理を学んだ私は世の森羅万象、まず大抵のことは自然科学の法則で割り切れると考えていた。ところが、この生命の神秘ときたらあらゆる法則をはるかに越えている。学位はともかく、人間を見つめ直すことができた意義の方がはるかに大きかったと言っていい。学位は昭和36年(1961)、3年間の努力の甲斐があって何とかいただいた。ちなみに論文のタイトルは「過酸化水素接触分解反応に及ぼすアルコールの影響」というものであった。
氏は’15年7月14日90歳で亡くなった。1992年4月の「履歴書」に登場した。京都大学在学中の1945年、「堀場無線研究所」を創業、学生ベンチャーの先駆けと言われた。分析・計測機器の専門メーカーとして事業を拡大し、自動車の排ガス測定装置で世界的な企業に育て上げた。78年、53歳で会長に就任して経営の第一線から退き、ベンチャー企業の育成に注力した。2004年に若手研究者が対象の「堀場雅夫賞」を創設した。
*社是は「おもしろおかしく」
昭和46年(1971)に大阪証券取引所に上場する際、当時の高橋理事長から「おたくの社是は何ですか」と問われ、ポカンとしたと書いている。そのとき初めてその必要性を知ったが、そのままで済んだ。しかし、昭和49年に今度は東京証券取引所で上場する際にも同じことを質問され、二度まで「社是のない会社ってあるのですね」と感心されてしまった。このままでは上場資格に汚点が残ると思い、氏は意を決して社是は「おもしろおかしくでいこう」と役員会に持ち出す。これには日ごろ従順な役員全員が反対し、「うちは分析計という堅い仕事でっせ。ここはおもしろなくともまともなやつでいきまひょ」と拒否された。役員や社員には吉本興業的な社是ではプライドが許さないと思ったのだろう。
氏は、たかが社是なのだからとそのときは引き下がったが、秘かにチャンスをうかがっていた。一旦こうと思い込んだら執念深い。創立25周年の昭和53年、会長を退く際に「記念品は要らんから例のあれを社是にしてくれへんか」と強引に認めさせたという。面白く愉快なエピソードを「履歴書」で紹介してくれていた。
ほりば まさお 堀場 雅夫 | |
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生誕 | 堀場 雅夫 (ほりば まさお) 1924年12月1日 |
死没 | 2015年7月14日(90歳没) 京都 |
住居 | 日本 |
出身校 | 京都帝国大学 |
職業 | 実業家(株式会社堀場製作所) |
テレビ番組 | 堀場雅夫のこころはベンチャー |
肩書き | 財団法人京都高度技術研究所 (ASTEM) 最高顧問 日本新事業支援機関協議会 (JANBO) 会長 京都商工会議所副会頭 京都市ベンチャー企業目利き委員会委員長 株式会社京都ニュートロニクス監査役 など |
配偶者 | 堀場美喜子(旧姓:小倉)[1] |
子供 | 堀場厚(長男。現・堀場製作所代表取締役会長兼グループCEO) |
親 | 堀場信吉 |
堀場 雅夫(ほりば まさお、1924年〈大正13年〉12月1日[2] - 2015年〈平成27年〉7月14日)は、日本の実業家。株式会社堀場製作所創業者および同社最高顧問。