掲載時肩書 | 日活社長 |
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掲載期間 | 1956/05/11〜1956/05/20 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1900/07/08 |
掲載回数 | 10 回 |
執筆時年齢 | 56 歳 |
最終学歴 | 東京経済大学 |
学歴その他 | |
入社 | 炭鉱(会計) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 日本完全燃焼㈱、金山、山王会館、日活、 国際会館建設、「事業は熱と信用」 |
恩師・恩人 | 松方乙彦、千葉銀行 |
人脈 | 藤田謙一、埼玉銀・永田甚之助、千葉銀・古荘頭取 |
備考 | 父遺言=事業哲学 |
1900年(明治33年)7月8日 – 1974年(昭和49年)11月14日)は東京生まれ。実業家。映画会社日活の元社長。8歳のとき父を亡くす。父の死後、母親一人の手で育てられ、そのうえ財産といって別にあったわけではないから生活は楽でなかった。親はささやかな荒物商を営んで久作を学校へ通わせた。苦学の末、大倉高商(現・東京経済大学)を出てから東北の小さな炭鉱の会計に入った。山王会館専務を経て日活再建を手伝うことになった。氏の経理能力と交渉能力は目を見張るものでした。
1.父の遺言→事業哲学に生かす
私は8歳のとき父を亡くしたが、私の今日あるのは父が死ぬとき遺した言葉が大きくあずかっている。「お前が世の中に出て、もし食うのにも事欠くことがあっても、決して物を質に入れてはならない。質に入れるほど困ることが起きたら着物を売ってしまえ。売ってしまって悔しかったら、それ以上のものをつくるように努力しろ。着物でも同じ着るならいいものを着ろ、悪いものは決して着るな」と遺言したのである。
私の事業哲学は借入金によって物をつくるときは、必ずいいものをつくろうということだ。金を借りて悪いものをつくったら回収がつかない。二つとないいいもの、あとで真似のできないものをつくること、これが事業の要諦である。中途半端なことをやってはダメである。これは親父から「どうせ着るならいいものを着ろよ」と言われたことを実行しているわけであり、これが生涯の教訓でまた私の事業哲学である。
2.日活の再建
昭和10年(1935)、松方乙彦社長の要請で日活の経理の平重役に就任した。この会社のバランスシートを見ると、想像以上のひどさだ。150万円の手形の他に未払い金が70万円もあった。撮影所に行ってみると雨が漏っているのでシートを敷いて撮影している。これはどうもえらいことになったと思ったが、松方さんの手前、このまま後へ引くこともままならない。
その当時、米国映画、欧州映画はトーキーであったが、日活はサイレントだ。それをトーキーに直さねばいかぬと考えたが、何分にも映画は素人でよくわからないので重役会にはかってみた。当時は専務も重役も玄人ぞろいだが、それはとんでもない話だという。トーキーに直したら地方へ行った場合、音が聞こえない。そんな実情に合わぬ考えはやめて、今まで通り弁士を使わなければならぬという。だが私は腑に落ちない。そこで営業部と撮影所の首脳部会議を開いて「一体日活が生きる道はトーキーで行くべきか、サイレントで行くべきか、どっちがいいか君たちで一つ結論を出してもらいたい」というと「時代の先端を行くべき文化事業が、今さらサイレントを固執するなんて滑稽だ。オール・トーキーにすべきだ」となった。
この理論的データを引っ提げて重役会に臨んだ。すると「オール・トーキーにするのは結構だが、金がまず100万円はいるだろう。それをどうするか」となった。言い出したのは私である。仕方がない。すぐ多摩川に鉄筋コンクリートのトーキー・スタジオと現像所や俳優部屋等約2千坪ばかりを着手させた。その当時、日活は今日潰れるか、明日潰れるかといわれていたのに、本建築のステージを作ったので、俳優の山本嘉一なんか私の手を取って泣いていたものだ。私も涙がこぼれた。
3.国際会館の建設
日比谷公園の近くに国際会館を建てた。この地所は終戦直後22年(1947)12月30日に坪3500円、450万円で買ったものだが、買った時は米軍のモータープールになっていた。このモータープールは永久なものではない。だから私は結局、これを建物に使用できないことはないという信念で買った。そこで竹中工務店に懸賞付きで国際会館の設計図を描かせ、その中で一番良いものをノースウェスト航空会社の副社長だったキング氏に見せて、相談を持ちかけた。
キング氏は非常に賛成で、GHQの経済科学局長マーカットに話したらよいだろうと助言してくれた。これらを生かして外務委員会を通じて、マッカーサー元帥の所に許可を申請した。するとマッカーサー元帥から「本計画に対して絶大の賛意を表する」というメモランダムがきた。私は喜んで、このメモランダムを添付して建築許可申請を日本政府に提出した。
驚いたのは政府。東京都の建築局長は、まるで爆弾が落ちたようだった。当時15坪以内という建築制限があり、30坪の建築さえ難しいのに、1万5千坪の建築というのは「気が違ったのではないか」と、てんで相手にしない。だが、GHQ司令部からのお墨付きがきているから、うっちゃっておくわけにはいかない。こっちはこっちで無我夢中だ。日に何回となく東京都へ、建設省へと行くという具合だった。この建物一つの許可を得るのに窓口56か所を通らねばならない。一つの窓に2,3日かかれば半年はかかる。
この申請と並行して、モータープールの緑地化取消しと道路計画の取消しの二つの行政措置も行った。
こうして夜を日に継いでの努力がだんだんと実を結んだ。まず建設省からは接収されているから解除になったときで結構だといって、解除のときに効力が発生するという条件付きで内許可をもらった。その許可書を持って接収解除の申請をし、主管であるエベリー少将の所へ行って話した。
「ここを自動車の置き場にしておいた方が日本経済の復興に役立つか、あるいは国際的なものを作って米国商社のオフィスあるいはホテルにした方が日本経済の復興に役立つか、ご考慮願いたい」というと、
「分かった、私の力でできるだけのことをしよう」という返事であった。それから二週間目である。調達庁へ、「ミスター・ホリからの申請に対し目下手続き中であるから本人に伝えよ」といってきた。驚いたのは調達庁であった。それから1,2週間後にMP本部から私に来いというから行くと、モータープールのカギを渡してくれた。それが昭和24年(1949)10月31日の午前10時だった。