坂本繁二郎 さかもと しげじろう

芸術

掲載時肩書画家
掲載期間1969/05/21〜1969/06/14
出身地福岡県
生年月日1882/03/02
掲載回数25 回
執筆時年齢87 歳
最終学歴
小学校
学歴その他小学校
入社代用教員
配偶者従妹
主な仕事画塾不同舎、「絵の理論」、制作を通じて思索、牛、漫画雑誌社、版画、パリ3年、馬、能面
恩師森 三美
人脈青木繁(小)、石橋正二郎・石井光次郎(教え)、梅野満雄、夏目漱石(評価)、三木露風、梅原龍三郎、安井曽太郎、藤田嗣治
備考久留米藩士、哲学的思考
論評

1882年3月2日 – 1969年7月14日)は福岡県生まれ。明治後期~昭和期の洋画家である。青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されたり、並べて論じられることが多い。文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論をいくつも著している。第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。

1.友人が青木繫と私の比較
私たち二人の共通の友人でした梅野満雄が二人の比較をこんな風に書いています。
「青木と坂本、彼らは大いに似て大いに異なる処が面白い対照だ。同じ久留米に生まれてしかも同年。眼が共に乱視。彼は動、是は静、荘島と京町と町は違うが同藩の士族。青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に住む。彼は浮き、是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成・・」
 私が自己流の修正と脱却を目指して絵の勉強に苦しみ抜いているころ、青木は図書館に通いづめ、古典文学を読みふけって神話の世界に幻想的な画題を求めていました。そのころの青木は顎を突き出し、大威張りの体で「おれは画界のナポレオンだ」とまでうそぶいたものです。同輩はまるで家来扱いで、私にはなにか一目置いていたようですが、それでもわがままな言動が目につきました。

2.青木の「海の幸」制作
明治37年(1904)の夏、私は青木と彼の愛人である女画学生福田たね、それに森田恒友の4人で千葉県の布良海岸に写生旅行に出かけました。あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、二度、あるかないかの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供も、豊漁の喜びに叫び合い、夏の日ざしのなか、懸命の水揚げです。私はスケッチも忘れただ見とれるだけの数時間でした。夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう。翌日からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。
 他の3人はもっぱらの手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、華やかな虚構の才には改めて驚かされましたが、あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木は全く見ていないはずです。現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです。実際は船から降ろす小魚は女子供がざるに受け、大魚はわたを捨てたのを、血を滴らせながら背に荷うのです。すさまじいばかりの色彩と動の世界がそこにあったのです。青木がそれをじかに見ていたら、もっと絵は違ったものになったでしょう。どこまでも写実、あくまでも写実を突き詰めていくうちに内的に純化され、心に投影される真実を描くのが、絵ではないのか・・と思い、信じ始めていた私にとって、青木のやり方は真剣に考えなければならない相反する創作態度でもあったのです。

3.私の絵の目標
私は自然そのもののなかに、現実そのもののなかに、詩も美もある質実な感激というか、見る人を柔らかく包み込み、語りかけるものを私の絵の目標にしたかったのです。その心の裏に私の母がいたのかもしれません。またはなやかな詩美に彩られた幻想の世界に挑んで去っていった青木の後ろ姿があったのかもしれません。

1956年

坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。

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