掲載時肩書 | 大商証券社長 |
---|---|
掲載期間 | 1962/11/27〜1962/12/14 |
出身地 | 大阪府堺 |
生年月日 | 1898/12/23 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 八高 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 坂家婿養子 |
主な仕事 | 茨城警察、上海警察部長、警視総監、富山知事、警視総監、大商証券 |
恩師・恩人 | 次田大三郎 |
人脈 | 杉道助、内田信也、東畑四郎(農林次官)、河合良成、大谷米太郎、大達茂雄 |
備考 | 豪快・剛毅 |
1898年12月23日 – 1991年2月22日)は大阪生まれ。内務官僚、実業家。1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。1943年4月、富山県知事に就任。1944年2月、農商省農政局長となる。同年7月、警視総監に就任し、1945年4月まで在任。同年8月、再度、警視総監となり、同年10月に辞任し退官した。大商証券社長。
1.貞操・・・(豪語暴言、現在なら新聞コードに抵触箇所)
大正14年(1925)、私が28歳のとき妻悦子(当時20歳)と結婚して坂姓を名乗るようになった。女に触れたのは妻が初めてであった。それまで童貞を守ったのもまた決して偶然ではない。大学時代、吉原は全盛を極めていた。友だちは私をいかに落とそうかと策略をめぐらしていたが、私はその誘惑には乗らなかった。旧い畑に新しいタネがまけるものか、新しいタネは新しい畑にまくんだ、という気持ちがあったからだ。
“貞操”の危機は最初の赴任先である茨城の水戸であった。ある晩、地元の税務署長と市内のさる料亭で酒を酌み交わしそのまま泊まってしまった。真夜中、喉が渇いたので目を覚ますと枕元に女が座っている。びっくりして訊ねると「あなたの夜とぎをしろといわれて・・」と言う。そこで私は彼女にこう言った。
「君には失礼かも知らないが、僕は雑魚にはタネを落とさないことにしている」年は22歳、名前は照葉というおだやかなかわいい芸者だった。
2.警察の選挙干渉に抵抗
大正15年(1926)、私は長野県の警務課長となった。そこで出くわしたのが、あの有名な田中内閣の選挙干渉である。当時、知事や警察部長は政府が代わるたびに首をすげかえられていたが、政友会の政府は長野の新しい知事を通して反対党の候補者に厳重な取り締まりを行うよう指令してきた。これは反対党の運動員に尾行をつけることを意味している。そのころは確か戸別訪問は許されていたが、訪問先で買収その他のチョッとした違反があればすぐ引っ張るという具合だった。一方与党の候補者は自由に選挙運動をやらせていたのだからひどいものである。私は「そんなバカなことがやれるか」と思った。そこで署員に、
「尾行はつけるな。ただ各村には選挙ボスがいて“お前は何の誰がしに投票しろ”といった工作をしている。しかしそうした工作の手のまわっていないところがあるはずだ。政友会の県の事務所の連中が聞きに来たらそういう情報だけを教えてやれ、後のことは一切同じ条件にしろ」と訓示した。
選挙の結果、一切尾行をつけるなといった私の区では検挙が増えたのだから愉快だった。
3.婦人を守る「防波堤」をつくる
終戦の二日後の昭和20年(1945)8月17日、二度目の警視総監を命ぜられた。今度は占領軍に毅然としてものをいうヤツとして起用されたらしい。私は早速署長会議を開いて占領軍対策を検討した。問題の中心は日本の女性をどうしたら占領軍から無事に守れるかということであった。
都民の不安をなくすため署長たちには「君らの疎開している家族を呼び寄せ、娘がいなければどこからか借りてこい」という訓示をした。私自身も娘を麻布の家に連れてきた。しかし占領軍も人間だ。ご苦労さんと言ってお迎えするわけにはいかないけれども、流れる水はせき止めてそこへ落とさなければ、やっこさんら何をするかわからない。そこで愛宕山の嵯峨野という料亭のおやじに因果を含めて「そういうことを気にとめぬ女性がいたら集めてくれ。金はおれがつごうするから」と言って集めさせ進駐軍から日本の婦人を守る“防波堤”をつくった。まず大森に、次に向島につくった。