唐池恒二 からいけこうじ

輸送用機器・手段

掲載時肩書JR九州相談役
掲載期間2023/03/01〜2023/03/31
出身地大阪府
生年月日1953/04/02
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他
入社国鉄
配偶者記載なし
主な仕事総務人事、バス所長、九州、丸井出向、あそBOY,船舶事業、外食事業、社内広報、ななつ星、九州都市駅振興
恩師・恩人石井幸孝
人脈青井忠雄、酒井米明、大嶋良三、市川猿之助(現・猿翁)、三戸岡鋭治
備考「夢」を持つ必要性
論評

国鉄関係でこの「履歴書」登場するのは、磯崎叡高木文雄、松田昌士、葛西敬之の諸氏に次いで5人目である。しかしJRの民営化後では、松田昌士葛西敬之の諸氏に次いで3人目である。氏は昔から好きだった落語口調を真似たさわやかで、ユーモア精神にあふれた「国鉄改革」文章で私を惹きつけてくれた。

1.民営化前夜
1985年九州総局に移った。九州全体を管轄する組織で、まず営業部旅客課の課長に就いた。割引切符や広告宣伝、観光キャンペーンなどを手掛ける部署だ。ここで現場主義と直接対面主義を貫いた。
 お客様からクレームが届くと、すぐに足を運ぶ。平戸に住む方が何かの件で怒ってるときは、鉄道で4時間かけて会いに行き5分で打ち解けた。こいう時は電話では駄目。いつまでも怒りが収まらないからだ。しかし面と向かって1時間以上、怒り続けられる人はいない。
 1年ほどたった1986年2月、同じ九州総局の総務部人事課長となった。九州の職員数は27,000人。一方、87年4月に分割民営化で発足する新会社の定員は法律で15,000人と決められていた。この「余剰」とされた12,000人を路頭に迷わせたくない。東京など大都市を抱える本州のJR3社は逆に人員不足と見られていた。石井幸孝初代社長と一緒に「本州ならJRに残れますよ」と説得。計1000人が本州のJRに移ることになった。

2.丸井百貨店に武者修行
JR九州が国鉄から引き継いだ車両は関東や関西からのお下がりばかり。ほとんどが赤字ローカル線で高速道路網やバスにも負け、鉄道収入1069億円に対し営業赤字は288億円と惨憺たる状況でのスタート。  
 しかし、1987年10月JR九州石井社長の配慮で丸井への研修を受けることになった。配属先は本社の企画室。次年度の事業計画などを作る会社の中枢だ。機密事項も多いはずだが経営計画作りにも参加させてくれるという。職場は7人。机に案内され引き出しを開けると1束の名刺と1枚のカードがあった。名刺には「株式会社丸井 企画室 唐池恒二」。カードには「歓迎、唐池様。ようこそ丸井へ」とある。次にロッカーを開けると、花束がハンガーにつるされ飾ってあった。感動して胸がジーンと熱くなった。
 ここには3つのギャップがあった。旧国鉄という役人的組織と民間企業との違い。鉄道というもっさりした仕事と飛ぶ鳥落とす先端企業の差。そして九州の門司と東京都心の環境の変化だ。幕末に欧州へ渡った武士を打ちのめした衝撃は、こういう感じだったのではないかと感じた。

3.丸井の研修で驚き
2日目。始業15分前の8時45分、企画室全員で部屋の掃除が始まった。ゴミを集め、机を整理し、床にモップをかけ窓を拭く。すべの職場でも同じ。管理職も参加する。これが民間企業か。国鉄ではありえない。会議も国鉄とは全く違った。発言者の少ない国鉄と違い、丸井の会議では発言しないと次から呼ばれなくなる。発言しない人の動機は自己保身にあり、会社のためには皆発言すべきという考えからだ。
 小売業では客に混じってライバル店を見て回るのも仕事の一部だ。丸井の社員たちは、入店前にまず一礼し、店を出た後も体の向きを変え店内に向かい一礼して帰路についた。先方の職場への尊敬の念、感謝の気持ちを示すためだ。
 夜は居酒屋で補習がある。課長の森久行さんは業務で接点のない部署の人たちを誘い、話を聞く機会を作ってくれた。カルチャーショックの連続ですべてが新鮮だった。経営戦略から職場の慣習まで、私のノートはどんどん埋まった。明るく活気のある職場をどう作るか。人を感動させるとは。小売業の仕組みを学ぶ研修のはずだが、丸井での学びはそれにとどまらなかった。

4.国鉄体質の改善ヒント
JR九州が発足してから私が鉄道事業に直接かかわったのは4年しかない。後は外食や船舶事業関連や人事、経営の仕事だった。国鉄の経営を傾かせたものは何だったか。ある同僚が半ば冗談半分で「3ニア」だと言った。ジュニア、エンジニア、マニアだ。代々国鉄に勤め外に疎い職員。技術者主導の車両開発。そして不便で古い列車や駅ほど愛着を覚える鉄道好き。これでは改革は難しい。民間企業なら、自社の商品が嫌いという人の心理こそ理解しなければ顧客は広がらない。顧客目線(マーケット・イン)が必要だと痛感。こうして新列車の企画を複数、同時に手掛けていった。

5.サービスの向上は社員の評価制度
2003年6月、JR九州本社に戻り鉄道事業本部営業部長兼サービス部長に就いた。着任から1か月後、私は営業部門の全社員に毎月配布する冊子「営業情報」で「営業部長メッセージ」という連載を始めた。持論の現場主義で各地を回り、気づいたことを指摘していくのだ。これを親しみやすい落語調にして、社内に受け入れやすく理解しやすいものにした。
 サービスランキングという評価制度も導入した。覆面モニターが全線を回り、駅長をはじめ営業関係の社員約200名が集まる営業施策会議で年3回、結果を発表した。当日までは極秘。会議の掲示で自分の駅の順位を知りその順番に座る。順位が上がった駅長はうれしさのあまり電話で駅員らに伝えていた。
 競争がサービスレベルを高め、売り上げに直結する。作戦開始から2か月後には月単位の収入で前年を上回る駅が半数を超えた。1997年度から6年連続で減少していたJR九州の鉄道旅客運輸収入は03年度、増収となった。

6.豪華列車「ななつ星in九州」
経営者の役割の一つは従業員に夢を与えることだ。社長就任から1週間後、九州新幹線の全線開業を2年後に控え準備に忙しい社員たちを前にこう宣言した。「世界一の豪華寝台列車を走らせたい」。一つの夢が叶うと、新幹線につづく夢を用意しておきたかったのだ。デザイナーの三戸岡鋭治さんと車両のコンセプトづくりから機能、細部の設計に至るまで話し合って決めていった。
 いい景色を見ながら長く歩くと格式が伝わる。通路は007映画をヒントに車両ごとに左右を変え、両側の風景を楽しめるようにした。名称は九州7県を結ぶため「ななつ星in九州」に決定。この車窓はすばらしい。窓からの風景は素晴らしく見せるための道具ともいえる。「ななつ星」は(製作費)30億円の額縁」である。
 料理も折詰や寿司桶でなく、福岡の高級すし名店「やま中」の大将が実際に乗り込み、乗客の前で握ったそのまま1貫づつ提供するからたまらないのだ。
 2013年10月15日、運行開始。3泊4日で38万~55万円(2人1室、一人当たり)という価格にもかかわらず、最初から高倍率で予約を取りづらい状態だった。当日は専用ラウンジでお客様同士と乗務員が顔を合わせ、4日間を共に過ごし、博多駅に戻る直前に社内でフェアウェルパーティを開く。お客様と乗務員全員が写真を見ながら旅の過程を振り返る時間だ。
 お客様は親しくなった人たちと別れる寂しさ、乗務員はそれに加え無事ツアーを終えられる安堵感から、みな泣いている。お客様同士で同窓会を開かれることも多く、乗務員が招かれることも珍しくない。3回、5回目というリピーターの方も増え抽選倍率を押し上げている。
 2021年秋、「ななつ星in九州」は世界の富裕層が読む米国の大手旅行誌「コンデナスト・トラベラー」による読者投票アワードの列車部門で1位に選ばれた。欧州の「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」などを抑えての世界一だ。

からいけ こうじ

唐池 恒二
生誕 (1953-04-02) 1953年4月2日(71歳)
大阪府
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学法学部
職業

九州旅客鉄道取締役相談役  九州観光機構会長 

大学院教授
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唐池 恒二(からいけ こうじ、1953年昭和28年〉4月2日 - )は、日本経営者九州旅客鉄道取締役相談役、九州観光機構会長、事業構想大学院大学特別招聘教授[1]九州旅客鉄道代表取締役会長等を歴任。

  1. ^ 唐池 恒二”. 事業構想大学院大学. 2021年6月11日閲覧。
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