吉行和子 よしゆきかずこ

映画演劇

掲載時肩書女優
掲載期間2021/05/01〜2021/05/31
出身地岡山県
生年月日1935/08/09
掲載回数30 回
執筆時年齢85 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他
入社劇団民藝
配偶者離婚
主な仕事民藝研究生、団員、早稲田劇場、歌舞伎、アングラ、一人芝居、俳句、テレビ
恩師・恩人久保栄、宇野重吉、朝倉摂
人脈河野多恵子、滝沢修、寺山修司、芦田伸介、唐十郎、鈴木忠志、伊丹十三、大島渚、岸田今日子、富士眞奈美、金子兜太、山田洋次、小山内美江子、山田太一、松井久子、
備考父・エイスケ、母・あぐり、兄・淳之介、妹・理恵
論評

氏は有名家族、父・エイスケ、母・あぐり、兄・淳之介、妹・理恵さんをこの「履歴書」でいろいろ詳しく語ってくれました。昨年5月の岸恵子さんに続いて20番目の女優登場となりますが、とにかく監督、プロデューサー、脚本家、舞台演出家など、宇野重吉、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志、朝倉摂、伊丹十三、大島渚、山田洋次、浜野佐知、小山内美江子、山田太一、松井久子、外山文治、奥田裕介、熊沢尚人、などの名前が次々と丁寧に出てきました。香川京子さんが27名の監督さんから指名され出演したのと同じで、彼女も人柄と演技力が評価されたからなのでしょう。

1.兄・淳之介と妹・理恵(ともに芥川賞作家)
兄:11歳も違うせいか、兄の性格ゆえか、あるいはうちの家族の特徴なのか、ベタベタした関係ではない。同じ病室で、一か月も入院したことがあるが、そのときもほとんど会話がなかった。兄は「だって、犬の名前だって恥ずかしくて呼べないんだよ」という。ペットも呼べないのに妹など呼べるか、という。シャイなのか、おかしな理屈である。
妹:4歳違いの妹、理恵とは仲が良かった。喘息で学校を休みがちだった私は、家で独り、紙を人間の形に切り抜いて、それを友達に見立てて物語を作っていた。妹は、いつもその遊びに付き合ってくれた。元気いっぱいで、近所のガキ大将のような子なのに、ひとしきり外で遊ぶと、私に付き合うため帰って来た。

2.宇野重吉さんと滝沢修さんの演技の違い
宇野さんは、劇団民藝を率いた名優である。「思えば出る」。宇野さんからいただいたこの言葉は、今も私を支えている。その意味では、私の一生を作った人ともいえる。「君は下手なんだから、他の人の100倍も200倍も、役について思わないといけないよ」。宇野さんは私に言った。自分が演じるのはどんな人間なのか、深く深く考えろということである。
 滝沢さんは、民藝のもう一方の名優である。数センチ単位で芝居を作り込む。お客様からどう見えるかなどを徹底的に研究し、完成すると、基本的に毎日同じ芝居をする。対して宇野さんは毎日、リアクションが変わった。役の「心」を大切にするから、日々の感情によって芝居が変わるのだ。この両極端なお二人と若いうちに芝居をできたことは、大きな糧になった。
 宇野さんには、結婚や離婚の相談もした。離婚の話をしたのは、東京の某劇場の地下にあった喫茶店。混んでいて並んでカウンターに座った。「別れます」「そうかそうか、やっぱり、無理だったかぁ」。私の人生を丸ごと受け入れてもらえるような気がした。こういう相談は、母のあぐりにはできないのだ。

3.女3人旅
以前の芝居でご一緒した岸田今日子さんから「人生観を変えてみませんか」と電話がかかってきた。「変えてみたいです」と即答。インド旅行への誘いだった。その後、岸田さんの友人の富士眞奈美さんも加わって、3人の旅が始まった。はじめはスペインで、全員が一か所ずつ選んで、マドリード、バルセロナ、マジョルカ島を巡った。親友同士でも、旅先で険悪になることはある。けれどこの3人の旅は、まるで性格が違うゆえに、うまくいった。相手にあまり期待せず、相手を面白がり、興味を持つことができた。
 その後、この旅はテレビ番組にもなった。台本もなく、自由にさせてもらった。趣味がバラバラだから、洋服がカブることもない。基本的に、私は時間厳守でせっかち、岸田さんは泰然自若、富士さんは大荷物で、カバン一つが全部化粧品だったりした。「何なのそれ」としょっちゅう笑いあった。私たちの旅は、中高年の旅行ブームを盛り上げることに一役かったという。
 岸田さんが「私が一番長生きするわ」と言っていた。けれど、妹・理恵と同じ06年に逝ってしまった。理絵が5月4日、岸田さんが12月17日である。

追悼

氏は2025年9月2日、90歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2021年5月で85歳のときでした。書き出しは、「父のエイスケは、前衛的な文章を書く作家だった。母は美容師の仕事で生活を支え、兄の淳之介と妹の理恵も作家になった。97歳まで働き続けた母の人生は、NHKの連続テレビ小説「あぐり」にもなったので、ご存知の方もいるだろう」でした。

1.母・あぐりとの旅
1998年、91歳になった母と私(66歳)は外国旅行をした。何日間も、寝食を共にすること自体、その時が初めてだった。この旅は、乗り継ぎをして十数時間もかかるメキシコである。しかし、母は「へっちゃらよ。昔は東京と(実家のある)岡山を18時間かけて行き来したわよ」。風呂敷に自分の下着や着替えを包み「あなたのカバンに入れて」と私に差し出した。
 不安のあまり、私は出発直前に帯状疱疹にかかってしまう。身体のあちこちがチクチクと痛み、メキシコに着いてもホテルで寝ていることが多かった。一方で母は元気いっぱい。現地の家庭に招待された日、一緒に行った友人に様子を聞きと「踊っていましたよ」。まるで手のかからない人だった。
 旅番組の仕事を兼ねてネパールに行った時は、王様も占うという有名な占い師を訪れた。「97歳で何かが起こります。それを乗り越えると103歳まで生きることができます」。そう言われて「占いなんかに当てられるのはシャクだから、その前に死んでやるワ」とタンカを切った母は、実際に97歳で軽い脳梗塞をやり、後遺症もなく回復したが、亡くなったのは107歳のときだった。

2.初の主役(アンネの日記)24歳
第二次大戦下、ナチスの目を逃れてアムステルダムの隠れ家で暮らしたユダヤ系の少女の物語「アンネの日記」は、世界的なベストセラーである。これを劇化したものを、日本では劇団民芸が1956年に初演した。オーディションには受かったが、私たち研究生にとって勉強のため、稽古は見学した。「本読み」や「立ち稽古」にも少し参加した。そして本番が始まって数日たったとき。朝、劇団から電話があった。アンネ役の少女が風邪で声が出なくなったという。「代役をやれ」という指示だった。
 劇団に駆け付けると、出演者が集まっていた。皆で最初からやってみると、私はアンネのセリフを全て言えた。舞台上での動きを教えてもらって、会場である六本木の俳優座劇場へ。本番の舞台での稽古もないまま、観客の前に出ることになった。やがて「アンネ!」と呼ぶ声がして、階段を駆け上がって舞台に出る。照明の下で芝居を始めると、すぐに「これはヘンな世界だ」と感じた。舞台上には、名優の滝沢修さんがいる。ふだんは怖くて近寄れないのに、舞台でなら平気で話しかけ、からかうことができる。
 ユダヤのハヌカ祭の場面で照明が消え、椅子に座ると脚がガタガタ震えていた。やはり緊張しているのだ。でも明かりがつくと、再び怖いもの知らずの少女に戻っていた。本来の主役の少女の風邪は数日で治った。私はお役御免になると思っていたのに、その後も、私と彼女のダブルキャストで上演が続いた。

3.一人芝居を演ずる(51歳)
1983年に初めて一人芝居をやった。フランスの小説を基にした「小間使の日記」で、ジャンヌ・モローが主演した映画が知られる。金持ちの家に入った小間使いが事件に巻き込まれる話で、映画では何人もの俳優が出てくるが、舞台用の台本では、一人が何人もの役を演じることになっていた。やはり、セリフ覚えには苦労した。覚えにくいところは紙に書いて部屋中に貼り付けた。登場人物たちをイメージした写真も貼った。ただ不思議なもので、セリフが完全に身体に「入る」と、何も考えなくても出てくるものだ。開演直前に台本を読み直したら、かえって本番でわからなくなったことがある。
 これを続けていると大間知さんが「クーデンホーフ光子伝」という分厚い本を見つけてきた。明治の日本オーストリア=ハンガリー帝国(当時)の伯爵に見初められ、この国に渡った女性の伝記である。必死の努力で言葉など身につけたのに、32歳になるころ夫が急死、差別や孤独にも負けず7人の子を育てた。後年、次男のリヒャルトは汎ヨーロッパ主義を提唱し、欧州連合(EU)の父の一人と呼ばれるようになった。
「MITSUKO―ミツコ 世紀末の伯爵夫人」と題して93年に神戸で上演した。でも一か所ではもったいない。出演者も大道具も少ないことだし、演劇をなかなか見られない土地を回ることにした。ビジネスホテルすらない町にも行ったし、スーパーマーケットの2階の、テナントが未だ入っていないスペースでも上演した。大道具は椅子と蓄音機だけ。衣装には、私がロンドンのアンティークショップで見つけたストールを使った。仕事柄「いつか舞台で使えそう」と思う衣類はちょくちょく買うのだ。
「MITSUKO―ミツコ」は欧州にも渡った。最初は94年、リヒャルトの生誕100年祭が開催されたスイスのグシュタードである。それを見て下さった方々が、ウィーンでも是非、などと言って下さり、結果として何度も欧州に出向いた。2005年にはミツコさんが暮らしたチェコのロンスペルク城の傍で上演、ほどなく13年続いた一人芝居を終わりにした。

*日本経済新聞「春秋」2025.9.10より抜粋
6年前のエッセー集で母あぐりさんが愛(め)でた桜並木の思い出を綴(つづ)っている。本人の役者人生をこの花に例えるなら、開花期間の長い八重桜かもしれない。文筆一家に生まれ演劇の道へ。テレビドラマで広く知られるようになったのは40代の半ばだ。その名優の訃報が伝わった。90歳。
▼人気を博した「3年B組金八先生」での、熱血教師を見守る温かいまなざしを記憶している方は多いのではないか。ぜんそくで通学もままならなかった過去を振り返り、「ドラマで初めて、学校行事を経験できた」と喜んでいた。年輪を重ねながら新たな役に挑み続ける姿は、老いへの不安や諦めの境地とは無縁に見えた。
▼「自分の事はなんでも自分で決める」。女性がもっと窮屈な世界に囲まれていた時代に自由を貫いた生きようもまた、ひときわ輝きを放っていた。「窓烏」の俳号を持つ。「遊べやと黄泉に誘う昼の月」。19年前に亡くなった妹、理恵さんの墓参を詠んだ一句のようだ。父と兄も交え、いまごろは一家団欒(だんらん)の最中だろうか。

美女と才女
吉行和子
よしゆき かずこ
吉行 和子
吉行 和子
(1962年)
本名 吉行 和子
生年月日 (1935-08-09) 1935年8月9日
没年月日 (2025-09-02) 2025年9月2日(90歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府(現:東京都
血液型 B型
職業 女優エッセイスト俳人
ジャンル テレビドラマ映画
活動期間 1954年 - 2025年
配偶者 なし(離婚歴あり)
著名な家族 父:吉行エイスケ詩人小説家
母:吉行あぐり美容師
兄:吉行淳之介(小説家)
妹:吉行理恵(詩人・小説家)
事務所 テアトル・ド・ポッシュ
公式サイト テアトル・ド・ポッシュ「吉行和子」
主な作品
テレビドラマ
風と雲と虹と
水中花
3年B組金八先生シリーズ
西部警察 PART-II
西部警察 PART-III
徳川家康
ナースのお仕事
あぐり
Et Alors-エ・アロール-
ごちそうさん
映画
にあんちゃん
愛の亡霊
お日柄もよくご愁傷さま
佐賀のがばいばあちゃん
東京家族
家族はつらいよ』シリーズ
受賞
日本アカデミー賞
優秀主演女優賞
1979年愛の亡霊
2014年東京家族
その他の賞
毎日映画コンクール
女優助演賞
1960年『才女気質』『にあんちゃん
田中絹代賞
2003年
第8回紀伊國屋演劇賞個人賞
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吉行 和子(よしゆき かずこ、1935年昭和10年〉8月9日 - 2025年令和7年〉9月2日)は、日本女優エッセイスト俳人東京府(現:東京都)出身。

父は作家吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり。兄は作家の吉行淳之介、妹は詩人吉行理恵

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