吉田難波掾 よしだ なにわじょう

映画演劇

掲載時肩書文楽人形遣い
掲載期間1958/09/19〜1958/10/08
出身地大阪府
生年月日1869/10/20
掲載回数20 回
執筆時年齢90 歳
最終学歴
寺子屋
学歴その他
入社12歳奉公
配偶者30歳で見合い
主な仕事15歳人形弟子入り、足(5~10年)、左手(5~)、右使い、蓑助、東京遠征、文五郎、難波掾、 天覧の栄誉
恩師吉田玉造 ・玉助
人脈吉田冠三、吉田玉蔵、中村鴈次郎1、桐竹紋小郎(弟子)
備考人形首は家宝
論評

明治2年10月20日(1869年11月23日) – 昭和37年(1962年)2月21日)は、大阪府生まれ。1909年4代目文五郎を襲名し、1915年からは文楽座人形座頭となった、女形遣いの名手として大正・昭和を通じて人気を集める。戦後は人形の首(かしら)の保存に力を入れ明治の古くから受け継いだ首を使用せず4代目大江巳之助に依頼し新たに製作させた。古い頭は現在でも文雀が中心になって保存し、後世に受け継がれている。

1.人形は我が分身
15歳で人形遣いの名人吉田玉造・玉助師匠に弟子入りをさせていただきました。今でも遣った人形に格別の愛着を感じております。舞台に使う人形の拵えは決して他人にやらせられません。誰にもクセがあるように、私にも人形の使いクセがあります。帯の高さはこの辺にしよう、すそさばきはこのあたりにしようと、自分のつかいよいようにこしらえたいからでありますが、もう一つは人形が可愛くて他人に任されぬ気持があるからです。このように衣装を着け頭(かしら)の髪をとかし、魂を込めてこしらえた人形は単なる人形ではありません。私にとっては、これはもう本物の熊谷直実の妻「相模」であって、脈も打っておれば、血も通っています。これをただの「でくの棒」と思っていたのでは人形は遣えません。

2.弟子時代の小僧仕事
当時の芝居は朝の5時頃から始まりますので、私たち小僧っ子は4時には小屋入りをしなければなりません。電灯もなく、まずランプに火をつけ、それから炭火を熾し、部屋から廊下の掃除をして、湯を沸かせます。やがて師匠の部屋入りの時刻になると楽屋口で出迎え、着物をたたみ、楽屋着の着替えを手伝います。お茶くみや雑用が済むと、こんどは大師匠親玉さんの部屋入りです。私は玉助師匠の弟子ではありましたが、楽屋では両師匠の面倒を見なければなりませんので、普通のお弟子さんの二人分仕事をさせられました。雑用が済むと今度は親玉さんのアンマを長い間させられます。
 間もなく柝(き)が入って小屋がざわついてきますと、黒子を被って舞台裏で小道具の調べや蓮台(舞台で小道具を置いたり、人形の足をのせるもの)運びをして部屋へ戻り、両師匠の舞台着の支度を手伝うのですが、役の変わるたびに衣装が変わるので、その度にいちいち裃や袴の手入れや雑用をするのです。
 そして一幕終わるごとに小道具類を元の場所へ納め、また部屋に帰って雑用というぐあいで、朝から晩まで立ち通しで、一分、一秒の暇もありません。腰の弁当はぶら下げたままで、ちょっとの暇を見ては立ち食いする程度で、腰をおろしたり、お茶を飲んだりする暇は全くなく、その忙しさは大変でした。このような血の出るような苦労をして座元からいただく給金は一興行でたしか20銭で、いかに明治時代だととはいえ、これでは食っていけません。なんとか米少々と芋が買えるだけでした。

3.人形遣いの指
秘伝といえば私の左手にタコがたくさんできていることでしょう。私の弟子たちは私の左手のタコの数が多いのに驚いているようです。年功だと思いますが、私としては77年間の修業の結果だと思っています。
 たいていの人形遣いは左手の掌の薬指と小指の下あたりにタコがあります。これは人形を支える胴串(とぐし)をいつも持っているからできるのです。この他、薬指と中指に1,2か所ある程度でしょうが、私はずいぶん前から五指全部に2,3か所あるほか、小指の外側の横に大きなのが2つあります。これは胴串を持ち、うなずきの糸(頭を前後に動かす仕掛)をあやつる「引栓」や「小ざる」(目、口、眉を動かす仕掛)を長い間つかっているうちにできたのでありますが、タコの数からみて、他の人形遣いとは違ったつかい方をしているのだな、ということが自分でもわかります。

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