掲載時肩書 | 丸善社長 |
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掲載期間 | 1969/03/23〜1969/04/17 |
出身地 | 愛知県豊橋 |
生年月日 | 1893/10/05 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 丸善 |
配偶者 | また従妹 |
主な仕事 | 朝鮮、満州、台湾開拓、ダイレクトメール、カストマーインデックス、麻雀元祖、著作権改正、文化懇話会 |
恩師・恩人 | 金沢末吉(社長) |
人脈 | 久米正雄、菊池寛、古川緑波(麻雀仲間)、佐々木茂索、杉本健吉、マクミラン(英首相)、藤山愛一郎、宮田重雄 |
備考 | 伊勢神宮司 |
1893年10月5日 – 1986年5月1日)は愛知県出身の実業家。54歳の時に丸善社長となり、同時に東京商工会議所副会頭となった。丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた松方コレクションの返還交渉にも関与している。1985年(昭和60年)には国立西洋美術館評議員会副会長を務めた。
1.人相学が役立つ(奉公時代)
精神修養のため淘宮術というのに入門した。月に1,2回、信仰者が交代で部屋を提供し、みんなの前で失敗体験を懺悔するのである。胸の中のわだかまりをすっかり吐き出して、気持ちをスーとさせることから徐々になおしていくわけだ。先生は、生年月日や人相を見て、こういうところが悪い、ここをなおしなさいと教えてくれるのである。この淘宮術に通っている間に、私は自分の人相をなおさなければだめだと知るようになった。これは顔の研究会で先輩から教わったものであった。例えば、人と喧嘩しても嫌な思いをすると、それが翌日必ず相に現れる。つまり、顔のどこかにケンがあるから、一日愉快に過ごせるはずがない。
それからというものは、朝起きると必ず鏡に向かい、そこに映る自分の顔と対決することにした。鏡の中の顔にケンがあるときはそれなりの因があるはずで、心を鎮めてそのケンを払い、柔和な顔になって出勤した。このようにして自分で努力してなおそうと努めることで、これを始めてから不愉快なことがあっても翌日に持ち越すことはしないようになった。人相学は、私がまだ十分に分別がついていないころ、人生に訪れた一つの転機を乗り越えるのに役立った。人と交渉ごとをする場合、光を背にして位置することが有利と知ったのも人相学からである。相手の顔の相の動きがよく分かるし、交渉が纏まるか否かの見当もつくのである。
2.麻雀の元祖を自認
私が麻雀を覚えたのは、市場開拓のために満州へ出かけたときであった。勧められてやってみると面白い。女子供にもできるから家族団らんにも役立つし、人と付き合うためにも都合がいい。大阪支店の販売課長をしていたころ、大阪日日新聞の事業部長がやって来て、「マージャンのやり方を新聞に書いて欲しい」と頼まれた。それで筆を執ったが、新聞連載がきっかけでこれを世に広めようという声が出てきた。
広めるためにはまず同好の士を集めなければならない。ところが大阪だけではやれる人が足りず、神戸、京都にも呼び掛けてやっと40人を集めた。場所は「灘万」に交渉するとレストランの一室を提供され、毎月1回集まって競技会を開くことにした。ルールは私が大陸で覚えてきて研究したものを採用した。やっているうちに参加者が増えて、多い時には300人以上も集まるようになった。
久米正雄、菊池寛、古川ロッパ、浜尾四郎らの諸氏と懇意になったのもマージャンからであった。昭和(1926)の初めには、東京にも麻雀連盟ができて、段位を出すとかルールを協定するとかで何度も大阪へやってきたものだ。東京の麻雀連盟は戦後早々に久米正雄氏が総裁に、私が副総裁に祭り上げられた。
3.著作権法の改正に尽力
戦後、旧外債処理のため外国をまわるようになってから、行く先々で日本の違法出版物、つまり洋書の海賊版に対する苦情を聞かされて驚いた。日本人は信義にあついと思っていたが、海賊版を出すようでは先が思いやられるというわけである。これには私もカチンと頭にきた。日本に帰って著作権法なるものを調べてみると、なんとこれが明治32年(1899)に制定されたもので、違反した場合の罰則も50円以上500円未満の罰金という時代離れした規定であった
これでは国際信義の面からもいけないと思い、さっそく文部省に出向いて掛け合った。当時の社会局長は現国立劇場理事長の寺中作雄氏である。寺中さんも随分骨を折ってくれて、昭和33年(1958)に法律が改正された。これによって罰則も2年以下の体刑または5万円以下の罰金というように強化された。体刑が伴うと検察庁も違反摘発に本腰を入れはじめ、海賊版は次第に影をひそめるようになった。
つかさ ただし 司 忠 | |
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生誕 | 1893年10月5日 愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目) |
死没 | 1986年5月1日 (92歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家 |
著名な実績 | 丸善社長 |
受賞 | 豊橋文化賞、国際デザインアワード名誉賞 |
栄誉 | 緑綬褒章、藍綬褒章、 フランス政府芸術文化勲章、勲二等旭日重光章、勲一等瑞宝章、 豊橋市名誉市民、東京都名誉都民 |
司 忠(つかさ ただし、1893年10月5日 - 1986年5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。
丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。