古川貞二郎 ふるかわ ていじろう

行政・司法

掲載時肩書元内閣官房副房長官
掲載期間2015/03/01〜2015/03/31
出身地佐賀県
生年月日1934/09/11
掲載回数30 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
九州大学
学歴その他佐賀大
入社長崎県庁
配偶者職場結婚
主な仕事音痴、厚生省(直談判)、警視庁、環境庁、首席内閣参事官、大喪の礼、サリン、小渕首相急死、6大改革、省庁再編、
恩師・恩人番記者
人脈石原信雄(7年4月)、村山、橋本、 小渕、森、小泉(5人首相)、国家奉仕、
備考5内閣 8年7月
論評

内閣官房副長官は現在の官僚機構のトップに位置するポストであるが、「履歴書」には初登場である。氏の経歴も異色である。昭和33年(1958)に九大を卒業して最初は長崎県庁に就職。厚生省を目指したが、国家公務員上級試験に失敗、働きながら再挑戦して厚生省の温情にて入省。平成6年(1994)に厚生次官で退官。総理官邸勤務は3度の15年、官房副長官は5代の内閣(村山、橋本、小渕、森、小泉)に仕え、8年7ヶ月に及び最長だった。(前任の石原信雄は7人の内閣に使えたが、在任期間は7年4ヶ月であった)。

警察庁、環境庁に出向後、内閣首席参事官(官邸課長職トップ)になり、閣議案件の取り纏め、総理の施政方針、政府主催の行事、儀式も担当する。内閣と宮中の連絡役であり、宮中の総理就任式や国務大臣認証式に侍立する。各省庁との根回しや取り纏めがあるため、睡眠時間は3時間(参事官)だと揶揄されていた。厚生次官の時は、3人の大臣に仕えた。宮沢内閣の自民党・丹羽雄哉、細川内閣の民社党・大内啓伍、村山内閣の社会党・井出正一である。与野党が入れ替わる政権交代と公正中立であるべき公務員のあり方は建前論だけではダメで、具体的なきちっとしたルール作りで対応した。

官房副長官は阪神大震災の38日後に就任し、地下鉄サリン事件、国松警察庁長官狙撃事件などが起きた。即刻、防災体制の整備、オウム真理教に対する破壊活動防止法に取り組む。戦後50年の村山談話と従軍慰安婦のアジア女性基金の創設、橋本内閣の普天間基地返還合意、6大改革(行政・財政・経済・金融・社会保障・教育)に取り組み中央省庁の再編、独立行政法人化法案の提出などを行う。小渕内閣では、中央省庁改革関連法案、地方分権一括法、周辺事態法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法、通信傍受法などを成立させたが、その法案提出等の準備・調整では水面下で多忙を極めた。森内閣では平成13年1月の中央省庁再編の実施だった。霞ヶ関はそれまでの1府22省庁から1府12省庁体制に移行するため、日常業務に影響を及ぼさずに移転するのは、各省庁の抵抗もあり難事業であった。この大改革は他国であれば血の雨が降る大事業だと私(吉田)は思う。

結びの言葉に、「制度・法改正を伴う仕事は政治にしかできない。政治主導が強調されるゆえんである。他方、行政の専門家集団である「官」は的確な情報と政策の選択肢を政治に提示し、「政」が下した場合は、その政策を着実に実行する責務がある。政と官は役割分担の関係にあり、役割に応じて国家・国民のために協力することが求められている。国民の皆さんには、志を持った公務員が日夜、公に仕事に努力している事実を理解していただくよう切に願っている」とある。

追悼

氏は‘22年9月5日、87歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’15年3月、81歳のときでした。総理官邸勤務は3度の15年、官房副長官は5代の内閣(村山、橋本、小渕、森、小泉)に仕え、8年7ヶ月に及び最長だった。(前任の石原信雄氏は7人の内閣に使えたが、在任期間は7年4ヶ月でした。)
今朝9月6日の日経新聞に政治部記者で当時官邸番だった吉野直也氏の追悼文が掲載されていたので下記に紹介します。この吉野記者が古川氏の「私の履歴書」執筆の担当だったと思われます。

古川氏の副長官就任は阪神大震災の38日後、それから間もない3月20日に国政の中枢を狙った地下鉄サリン事件、同30日に国松孝次警察庁長官の狙撃事件が相次ぎ、世相は騒然としていた。古川氏の住居だった東京・南青山の官舎に夜討ち朝駆けをして、その一言をもらすまいと緊張の日々だった。
その時は突然訪れた。古川氏は厚生次官退官後に住むための自宅を東京の郊外に購入していた。首相官邸に近い南青山に引っ越してきたものの、週末は部屋の換気で郊外の自宅にも行く可能性があると読み、待った。「あれ、なんでわかったの?」。通い続けて数カ月、95年7月だった。古川氏が一人でちょうど空気の入れかえに立ち寄った時に会うことができた。思い入れがある自宅の説明を聞くうちに「夕飯、まだなら食べていきなさいよ」と声をかけてもらった。

駆け出しの政治記者にとって官僚のトップに上り詰めた古川氏の話のすべてが新鮮だった。「まだ大丈夫でしょ」と最初はこちらの帰宅時間に気をつかってくれた。お酒が進むうちに途中から「きょうはもうこの家に泊まりなさい」に変わった。「勝ち過ぎちゃいけない」。印象的だったのは霞が関の調整に際して心がけていたというこのセリフだった。長く仕事をするうえで同じ霞が関の相手をやり込めても、いずれ自らに負の要因として跳ね返る意味だと受け止めた。

副長官退任後も折りに触れて取材した。在任中の思い出の言及で最も多かったのが日米による96年4月の米軍普天間基地の返還合意だった。古川氏が橋本龍太郎首相に「これが政治だというものを見せていただきました」と言うと、橋本首相は「副長官、それはお世辞だよ」と返し、「いや政治です」「お世辞だよ」と掛け合いになった場面だ。
古川氏は夫人とともに3日、コンサートに出かけていた。4日に体調を崩し、容体が急変した。古川氏の官僚人生は昭和から平成の激動期と軌を一にする。「生まれ変わっても公務員になりたい」と話していた古川氏の夫人への口癖は「自分の能力を上回る120%の仕事ができた」だった。(政治部長 吉野直也)

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古川 貞二郎(ふるかわ ていじろう、1934年9月11日 - 2022年9月5日[1])は、日本厚生官僚社会福祉法人恩賜財団母子愛育会理事長。

厚生事務次官内閣官房副長官株式会社麻生監査役を歴任。

村山内閣から小泉内閣にかけて内閣官房副長官を務め(在職日数3133日)、2021年7月25日杉田和博に更新されるまで歴代最長の内閣官房副長官だった[2]

  1. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「mainichi20220905」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  2. ^ “杉田官房副長官、在職最長に 3134日、古川氏抜く”. jiji.com(時事通信社). (2021年7月25日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2021072400351&g=pol 
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