掲載時肩書 | 国鉄総裁 |
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掲載期間 | 1958/08/15〜1958/09/05 |
出身地 | 愛媛県 |
生年月日 | 1884/04/14 |
掲載回数 | 22 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 鉄道院 |
配偶者 | 上野音楽校娘 |
主な仕事 | 労働問題、米留学、会計、鉄道病院、復興院、満鉄、興中公司、西条市長、弘済会長 |
恩師・恩人 | 後藤新平 |
人脈 | 藤村操・安部能成・岩波茂雄(一高同級)、森格、種田虎雄、仙石實満鉄総裁、林銑十郎首相 |
備考 | 父:百姓 |
1884年(明治17年)4月14日 – 1981年(昭和56年)10月3日)は愛媛県生まれ。鉄道官僚、政治家。71歳という高齢でありながら、1955年5月20日に第4代日本国有鉄道総裁に就任した。翌1956年(昭和31年)には、産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)に就任する。当時は大事故が立て続けに起こり、国鉄の信用は地に墜ちていた。そこで登板した十河に対し、「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との酷評もあった。それに対し総裁就任時、「最後のご奉公と思い、赤紙を受けて戦場に行く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をして、信用の回復を第一目標とする形で引き受けた。第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) – 1963年(昭和38年))。「新幹線の父」と呼ばれた。
1.後藤新平鉄道院総裁
私は後藤総裁の人柄に心酔して、農商務省内定を断わり、鉄道院に就職した。総裁がやられた仕事は、鉄道は特殊の事業であるから、その業務経営について専門に研究する必要があると言って、業務調査会という研究機関を設けた。同時に鉄道はいろいろの技術を総合的に研究しなければ、その運営の完全を期することができないと、鉄道技術研究所を創設した。この経営と技術の両面にわたる調査研究が、後年世界において、狭軌鉄道として最も優れた能率的な鉄道を作りあげる基礎となったのである。
また総裁は人間関係を重視し、鉄道大家族主義を提唱された。鉄道職員はすべて制服を着用して、全く一丸となり、国民にサービスしなければならぬという気風を作った。そして永井亨博士を迎えて鉄道病院をはじめ各般の厚生施設をつぎつぎと拡充したのだった。
2.国鉄から満鉄へ
仙石實氏が満鉄総裁になったとき、仙谷氏が鉄道大臣時代の私との関係で、満鉄に入れと言われた。満鉄理事は満州に骨を埋める覚悟のある者から選ぶべきで、私にはその資格がない理由で辞退した。しかし、重ねての懇望に断り切れず総裁ともに満州へ行った。が、間もなく仙石総裁は病を得て辞任され内田康哉氏が総裁となった。
やがて満州事変が起こった。そして満州国が生まれた。私は関東軍に対し漢民族の動向を重視すべきこと、対満政策は対中国政策と総合的に研究して策定せねばならぬことを献言した。軍は私の意見を入れたのか私に中国視察を希望してきた。その間の行きがかりから私は興中公司に関係するようになった。
昭和11年(1936)1月、興中公司社長として初の中国入りをし、天津滞在中、孫文の建設計画を基礎として、手持ち資料を参照し事業計画大綱を立案、たまたま北満出張中の松岡洋祐総裁とハルピンで会見し、了解を得た。その後いろいろあったが、さていよいよ具体的行動に移ろうとしたとき、二・二六事件が突発し、行動を中止して帰国した。
3.国鉄へ
昭和30年(1955)5月、時の鳩山一郎首相から、国鉄再建のため奮起せよと再三再四懇請された。これより先、洞爺丸、紫雲丸と打ち続いて大事故が起こり、国鉄に対する国民の批判は厳しく、綱紀の粛正、経営の振作について画期的改革の必要が叫ばれ、非難攻撃が国鉄に集中した。
いわば国鉄は満身創痍というわけで、政府は朝野の人物を物色して総裁に迎え、国鉄改革に当たらしめようとしたが、これに応ずるもの無く、ついに白羽の矢が私に当たったのである。私は至誠国難に赴く心持で総裁就任を受諾した。