掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 2006/01/01〜2006/01/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1927/05/01 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 旧制松本高 |
入社 | 慶應医助手 |
配偶者 | 海外支 店長娘 |
主な仕事 | 船医、「DR.マンボウ航海記」、躁うつ病 、「マブゼ独立国」、「茂吉4部作」 |
恩師・恩人 | 母・偉丈夫 |
人脈 | 宮脇俊三、佐藤愛子、なだいなだ、辻邦生、遠藤周作、阿川弘之 |
備考 | 父:茂吉 兄:茂太 |
1927年5月1日 – 2011年10月24日)は東京生まれ。小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士。
1958年(昭和33年) 11月から翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海した。ドイツ訪問が乗船の動機だった。この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行されると、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。その後ナチス・ドイツの「夜と霧作戦」をモチーフにした『夜と霧の隅で』で、1960年(昭和35年)に第43回芥川龍之介賞を受賞する。以降、小説、エッセイとも、特に若い読者から熱狂的に支持される人気作家となった。祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香。
1.父・茂吉
私の父は斎藤茂吉というアララギ派の歌人であった。世間の噂ではなかなか偉い人のようであった。しかし、家族や親しい弟子にもカミナリをよく落とした。在るとき、玄関に客が見えた。女中が先生は風邪でお休みですからお目にかかれませんと伝えた。しかし客は、遠くから来たのだからお顔を一目でもと主張した。しばらくすると、二階から父がドカドカと足音を立てて降りてきた。そして父はカミナリを爆発させた。おれは本当に風邪で寝ている、嘘だと思うのか!こういうとき、父は一言で足りず、およそ5分ほども怒りをぶつけていた。客はほうほうの体で帰って行った。
2.船医で航海
私はトーマス・マンを熱愛していたから、一度ドイツへ行ってみたかった。昭和33年(1958)11月、水産庁のマグロ調査船、照洋丸が船医を探しているのを知り、思い切って乗船することにした。
支度金は10万円、4万何千円かの月給はプールされて帰国後に受け取れることになっていた。個人用の酒や煙草はあらかじめ申し込むと、無税のものが日本円で買えた。酒はトリスから各種あったが、煙草は50本の缶入りピースだけだった。缶入りでないと乾燥してしまうからである。外貨は与えられた額を、各国に着いたとき札で貰える。当時の日本は外貨に乏しく、水産庁の役人は別として、船長の次に多い船医もごくちょっぴりしか与えられなかった。これらの思い出を「どくとるマンボウ航海記」に書いた。
3.先輩や友人
私は一面では人嫌いなところもあるので、文壇づきあいはごく少ないほうだ。
(1)辻邦生氏:高校時代からの友人で、私の習作時代から生原稿を読んだり聞いてもらったりした仲だ。
(2)佐藤愛子氏:同人雑誌からの仲間、怒りっぽいので、いつも叱られてばかりいた。
(3)なだいなだ君:同人雑誌からの仲間、博識なのでいろいろ学んだこともある。
(4)埴谷雄高氏:全てにおいて博学でいらした。中でも性学の大家で、話し出すと止まらなくなる。
(5)遠藤周作氏:素人劇団「樹座」に入れて頂き、毎年軽井沢で盛大なパーティを開きみんなで騒いだ。
(6)阿川弘之氏:「マンボウ航海記」の初書評を書いて下さり、生涯で最も多く一緒に海外旅行をした。
4.躁とウツ(私の性格)
私はウツ病のときは人に会うこともつらくなるが、躁病の時は元気で、仕事もしたり旅に出かけたりする。
(1)ウツ病のとき、昼まで寝るのでなかなか仕事にかかれない。そうなると行動はモタモタで喋るのも苦労。
(2)躁病のとき、グアム旅行の時、行きのパンアメリカンの席は何だか日本人の新婚ばかりのように見えた。それだけで腹を立てた。何故なのか自分でもわからない。さて、自室で寝ようとして、カバンの蓋を閉めようとしたら閉まらない。私が「ブレイモノ!」とかなりお声で発したら、煉瓦で仕切られた隣の部屋で何かゴソゴソ動く気配がした。これはてっきり新婚さんを起こしてしまったのだと、自分が可笑しくなった。
北 杜夫 (きた もりお) | |
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『新日本文学全集 第32巻』(集英社、1964年11月) | |
誕生 | 斎藤 宗吉(さいとう そうきち) 1927年5月1日 東京府東京市赤坂区青山南町(現:東京都港区南青山) |
死没 | 2011年10月24日(84歳没) 東京都目黒区東が丘 国立病院機構東京医療センター |
職業 | 小説家、随筆家、精神科医 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 医学博士(慶應義塾大学) |
最終学歴 | 東北大学医学部卒業 慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程修了 |
活動期間 | 1959年 - 2011年 |
ジャンル | 小説、随筆 |
代表作 | 『幽霊』(1954年) 『どくとるマンボウ航海記』(1960年) 『夜と霧の隅で』(1960年) 『楡家の人びと』(1964年) 『ぼくのおじさん』(1972年) 『輝ける碧き空の下で』(第1部・1982年、第2部・1986年) |
主な受賞歴 | 芥川龍之介賞(1960年) 毎日出版文化賞(1964年) 日本文学大賞(1986年) 大佛次郎賞(1998年) 旭日中綬章(2011年) |
デビュー作 | 『幽霊』(1954年) |
子供 | 斎藤由香 |
親族 | 斎藤茂吉(父) 斎藤茂太(兄) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉〈さいとう そうきち〉、1927年〈昭和2年〉5月1日 - 2011年〈平成23年〉10月24日)は、日本の小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士。位階は従四位。
祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香。
東北大学医学部を卒業。精神科医のかたわら、『文芸首都』に参加。水産庁調査船の船医の体験をユーモラスに描いた『どくとるマンボウ航海記』(1960年)で好評を得、以後「どくとるマンボウ」ものを次々に発表した。
『夜と霧の隅で』(1960年)で芥川賞を受賞。『楡家の人びと』(1964年)は、近代における最初の市民小説と高く評価された。