掲載時肩書 | 彫刻家 |
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掲載期間 | 1982/05/27〜1982/06/24 |
出身地 | 長崎県 |
生年月日 | 1884/12/16 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 97 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 京都美術工芸学校 |
入社 | 小学校先生 |
配偶者 | 郷里女性見合い |
主な仕事 | 日本住血吸虫病、男性像(橘中佐、楠公、西郷、大村益次郎、板垣退助)、将軍の孫、石膏直付法、長崎平和祈念像、 |
恩師・恩人 | 白井雨山 (下宿)、建畠大夢 |
人脈 | 村上華岳(同級)、朝倉文夫(天才肌)、森鴎外、池田勇八、関野聖雲、橋本茂三郎 |
備考 | 長寿法発表:36歳 |
1884年(明治17年)12月16日 – 1987年(昭和62年)3月4日)は長崎県生まれ。日本の彫刻家。戦前の作品は「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」など勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品を多く手がけた。戦後になると彫刻モチーフは平和、自由、宗教に変化し、そういった作品を多く制作し日展に出品した。北村の代表作である長崎平和祈念像は1951年(昭和26年)より4年の歳月を費やして内外からの浄財3千万円を資金源として作成された青銅製10メートル弱の巨大男像であり、1955年(昭和30年)に完成し同年8月8日、長崎平和公園に設置されている。
1.森鴎外博士と私
大正8年(1919)に帝国美術院が設立され、それまで文部省主催だったのが、展覧会は帝国美術院主催に変わったのである。初代院長は森林太郎鴎外であった。鴎外博士は帝室博物館(現国立博物館)の館長職にあり、帝国美術院長は兼務である。文展の最後の3回は彫刻部審査員になったので、その関係でも、私の彫刻のことは、認めていたのであろう。
日露戦争当時は陸軍大臣の任にあり、大正5年(1916)には総理大臣となった寺内正毅伯爵が、大正8年に亡くなると、陸軍内部で、寺内伯の銅像を作る議が起こって、その建設の取り仕切りを鴎外博士に託した。託された鴎外博士は、私を銅像制作には適任と思ったらしい。大正9年早々、私にその依頼を申し入れてきた。私が橘中佐の制作像が進んでいる最中だった。
それをありがたく引き受け、銅像の制作費や規模、依頼内容等の打ち合わせのため、鴎外博士を幾度か訪問した。帝室博物館で鴎外博士に会うと、博士はいつも八字ひげをピンと立て、将官の軍服を着て執務しており、少しも文人には見えなかったが、言葉遣いは非常に優しく丁寧であった。
2.朝倉文夫、建畠大夢と私の競作
大正10年(1921)5月、建畠大夢教授の推薦により私も東京美術学校の教授に就任し、また同時に朝倉文夫君も同じく教授になった。いずれも彫刻科塑造部の担任である。官展で先頭を切って活躍している30代後半から40代初めの者が、そろって美校の同じ部署に配された形である。
昭和11年(1936)、憲法発布50周年を記念して、憲政の功労者伊藤博文、板垣退助、大隈重信3人の銅像を作り、国会議事堂に据えようという案が、政府内で決まり、その制作方を、朝倉文夫君と建畠大夢君と私との3人に依頼してきた。東京美術学校塑造部の3教授に競作させようというのである。朝倉君は、前にも大隈像を作っているので、大隈侯のことはよくわかっているとしてこれを担当し、建畠君は伊藤侯、私は板垣侯というふうに、各自受け持った。2年がかりで制作し、昭和13年(1938)に完成し、除幕した。
3.長崎平和祈念像の願い
昭和25年(1950)秋、長崎市から原爆犠牲者の冥福を祈る平和記念像を建設する考えを打診された。私は願ってもない好機であり、幸運であると思った。是非とも成し遂げたいと全力投球の身構えになった。
そしてこの像を、観音にしようか、女神にしようか、裸体にしようか、裸体なら男か女か、立像か座像かと、日夜想を練った。結局、自分の得意は男性像であり、得意なものでいくのが一番いいとし、原爆という強烈なものに対抗するのだから、強烈な印象の男子像でなくてはならぬとした。
これを座像と決めたが、外国人が見ても、少しはこたえてもらわなければならず、それには、強い上に安定した力の感じも必要で、安定型の三角構図の座像に落ち着いたのである。平和も、「記念」ではぬるいと思った。平和は「祈念」すべきで、「記念」すべきではないと思った。人類は平和を願う。これは平和が人類に定着してないからこそだろう。平和が来ても、本当に人類は平和人間になったか。過去に争いが絶えなかったように、これからも争いがあるのではないか。私には人類は、まだ本当に平和を手中にしているとは受け取れなかった。だから平和祈念像とした。
北村西望 | |
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生誕 | 北村 西望(きたむら にしも)[1] 1884年12月16日[2] 日本 長崎県南高来郡南有馬村白木野[3](現・南島原市) |
死没 | 1987年3月4日(102歳没) 東京都武蔵野市[2] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都市立美術工芸学校彫刻科(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)、東京美術学校(現・東京芸術大学) |
著名な実績 | 彫刻 |
代表作 | 「板垣退助翁」(国会議事堂内)[3] 平和祈念像(長崎平和公園)[3] |
受賞 | 1958年-文化勲章[3] 文化功労者 紺綬褒章 |
公式サイト | 西望記念館 |
メモリアル | 北村西望賞(西望賞) |
影響を受けた 芸術家 | 朝倉文夫、建畠大夢 |
影響を与えた 芸術家 | 石原昂、羽下修三 |
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。