加藤治郎 かとう じろう

囲碁将棋

掲載時肩書将棋名誉九段
掲載期間1979/05/26〜1979/06/24
出身地東京都
生年月日1910/06/01
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他早大高 等学院
入社プロ棋士
配偶者家庭教師娘
主な仕事新進棋士奨励会、新定跡、塚田正夫の縁結び、「将棋は歩から」、大山・升田台頭で引退、名人の癖、駆け引き、
恩師・恩人山本樟郎 師匠、中島富治(仲人)
人脈ガキ大将・土門拳、実力名人制、安永一、菊池寛、梅原龍三郎、
備考母・高橋是清奉公
論評

1910年6月1日 – 1996年11月3日)は東京生まれ。昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。早大卒業後、奨励会に付け出し三段で入会し、大学出身者初のプロ棋界入りとして話題となる。当時は棋士の社会的評価が低く、叔母などには「大学まで出ながら情けない」と嘆かれたという。順位戦でA級から降級したのを期に1949年、39歳で引退。高柳敏夫と共に潔い去り際として知られる。引退後は観戦記者として活躍。三象子等のペンネームで棋聖戦や王座戦などの観戦記を執筆。1984年、観戦記1500局以上で、日本将棋連盟から功労賞を受ける。

1.新進棋士奨励会の発足
私の学生天狗の鼻をへし折った中島富治(海軍主計元中佐、将棋界の世話役存在)さんは、なぜか私を気に入って随分と可愛がってくれた。私がプロ棋士になる決意をしたのも、結婚の仲人を引き受けてくださったのも中島さんで、人生の恩人であった。この中島さんや中央大学教授の生出徳治さん、弁護士の岩田春之助さんらが中心となって、棋士の卵の養成のため、昭和3年(1928)に「新進棋士奨励会」を発足させた。これが現在の奨励会として続いているわけで、奨励会はプロが作ったものでなく、中島さんらアマ棋客が生みの親である。

2.対局時の対処法(感情の高ぶりを鎮める)
碁も同じであろうが、将棋は芸や実力の勝負であると同時に、実際の勝負にはメンタルな要素が極めて大きなウエートを占める。つまり、感情が不安定では勝てないわけで、プロ棋士はこの事を知っているので、みんな対局に臨む際に感情の高ぶりを鎮めるため色々と工夫する。喜怒哀楽の感情の中で、「喜」が将棋には最もマイナスで、次いで「怒」「哀」の順で悪い。「楽」が将棋を指すには一番向いており、「楽」の境地で指せれば、実力をフルに発揮でき、滅多に負けないものである。
 しかし現在、自分が「楽」の境地にあるのかどうかを知ることがなかなか難しい。私は自分の感情を時計の振り子に見立て、その振り子を第三者の立場で眺めるように心がけた。そうしてると振り子の大きな揺れが次第に鎮まってき、自分の感情の状態が客観的に見られるようになる。そうなってから盤面を眺めた。

3.現役引退の決意
A級から落ちても現役を続けるべきか。それとも潔く引退すべきか・・。人生の重大な局面に、私はいつになく慎重に長考を重ねた。その結果、4つの理由から、きっぱりと退役の道を選ぶことにした。(1)今さらB級1組で将棋を指すことは誇りが許さなかった。(2)後輩陣の中から升田、大山という途方もない逸材が台頭してきたことだった。将棋界には天才が多い。しかし、天才の中でも升田、大山両雄は文句なしの大天才だ。(3)この際、現役を退いて幹事として大成会の運営に専念したかったこと。(4)最初の著書「将棋は歩から」の売行きがよかったこと、である。私は昭和24年(1949)3月を限りに39歳で退役棋士となった。
 そしてこの7月29日に任意団体だった大成会は、社団法人「日本将棋連盟」になり、私が幹事長として前任の篠原氏から引き継ぐことになった。

4.盤外の駆け引き
昭和25年(1950)の「木村―升田」名人戦はすさまじかった。升田8段が残り時間を記録係に聞くのは、いつも自分が優勢で、しかも4時間も5時間も残っているとき。苦戦で時間も切迫している木村名人に対し、「いい加減に、諦めたらどうか」という含みを言外に込めていたわけである。一方、木村名人は優勢になると、駒台の駒をクスリ指で整理し始める。5本の指の中で最も使わぬ指で整理するのは「もう将棋は終わりで、私はヒマで仕方ない」ということを相手に知らせるわけで、「もう投了しなさい」との意を込めているのである。

加藤 治郎(かとう じろう)

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